山中城跡(国指定文化財「史跡」)

山中城跡(国指定文化財「史跡」)

山中城跡3
   山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530~1560年頃)、小田原に本城をおいた後北条氏によって番城(城主を置かない城)として築城されました。山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた自然の要害の地につくられた山城は、標高580メートル、城の範囲は東西500メートル、南北1,000メートルに及びます。城からの展望はよく開け、西櫓からは御殿場・裾野方面が、岱崎出丸からは伊豆北部と駿東の大半を一望のもとに見渡すことができます。

 山中城のある伊豆地方北部は、武田・今川領と国境を接しており、本城である小田原城にとって西方防御の要の地でありました。天正年間、全国制覇をめざす豊臣秀吉が小田原攻めに着手すると、山中城は韮山城、足柄城とともに最前線の軍事拠点として重要視され、堀や出丸などの大改修が行われました。天正18年(1590年)3月29日、6万7千の豊臣軍の総攻撃をうけ、4千の北条勢は必死に防戦しましたが、鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。豊臣方で一番槍を果たした渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」は、この戦闘がいかに凄まじいものであったかを物語っています。いま、三ノ丸にある宗閑寺境内には城主松田康長以下、敵味方の武将の墓がひっそりと苔むして並んでいます。

山中城跡1
   山中城は、後北条氏の築城技術を駆使して造られた城で、戦国時代末期の山城の様子が大変よく分かります。昭和9年(1934年)に国の指定史跡となり、三島市では、400年間埋もれていたこの山城の発掘調査を、昭和48年から開始しました。発掘調査によって、曲輪の周囲に巡らされた堀や土塁などの防御施設、堀の上に架かっていた木橋の跡や門柱跡などが明らかになりました。なかでも「障子堀」や「畝堀」は後北条氏の城に特徴的な堀の形で、堀の中に土手状の畝を掘り残して区画し、上から見ると障子や田畑の畝のように見えることからそう呼ばれています。現在は、型くずれ防止のために芝生が張られていますが、本来はローム層(赤土)がそのまま露出し、滑りやすく、登り難い造りになっています。出土品には、鉄砲玉・石つぶて・兜の前立などの武器・武具・陶磁器や古銭・キセルなどの日用品があります。

山中城跡2
 
 400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものです。昭和56年、三島市制40周年に合わせて史跡公園として一般開放し、以来多くの人に憩いの場として親しまれています。また、春から晩秋にかけていろいろな花木が咲き、天気が良い日には障子堀越しに富士山が見られます。
「障子堀」「畝堀」が特徴的な緑豊かな史跡公園は、歴史的な面、技術的な面で評価され、「日本百名城」にも選定されています。

山中城跡リーフレット