江戸時代(17世紀初~1868年)

江戸時代はほとんど戦乱もなく、平和な時代が続きます。海外との交易は減少しますが国内では新田開発、農業技術や陸海運の発展、都市の発達などにより商品経済が発達しました。
 三島の町は東海道五十三次の宿場町となり、多くの旅人でにぎわいました。また、周辺の村々ではおもに農業が営まれていました。これらの村々はほぼ現在の大字と重なっています。飢饉や厳しい身分制もありましたが社会はおおむね安定し、文化的・教育的な活動も盛んになりました。

(1)三島宿(みしましゅく)を描いた浮世絵 

09江戸時代 浮世絵 朝霧 09江戸時代 浮世絵 名所図会 三島の歴史用
左:東海道五十三次之内 三島 朝霧、天保年間(1830~44) 歌川広重画 保永堂版
右:五十三次名所図会 十二 三嶋 三嶋大明神一の鳥居  安政2年(1855) 歌川広重画  


 「朝霧」は早朝の三嶋大社前、霧の中を箱根方面へ出発する旅人が描かれています。三嶋大社は源頼朝以来の武家の崇敬を集めており、江戸時代も多くの参詣客でにぎわっていました。大社前は東海道が東西に横切るだけでなく、北へ甲州道(佐野街道)、南へ下田街道が伸びており、大きな交差点(四つ辻)を形成しています。三島宿(みしましゅく)を描く浮世絵のテーマとしてもっともよく取り上げられたのも三嶋大社前の情景でした。

(2)発掘された箱根八里の石畳

09江戸時代 石畳 腰巻地区 09江戸時代 石畳 願合寺地区
江戸時代 左:腰巻地区、右:願合寺地区

 箱根八里は急な坂道が長距離続き、東海道一の難所とされていました。赤土のすべりやすい道だったため、江戸時代の初めには笹が敷かれていましたが、延宝8年(1680)に恒久的な対策として石畳が敷かれました。石畳は江戸時代をとおして使われましたが、幕府の財政難のため十分な補修は行われなかったようです。

(3)検地と年貢

09江戸時代 検地帳1 中鈴木家文書 三島の歴史 09江戸時代 検地帳2 中鈴木家文書 三島の歴史
09江戸時代 検地 県治要略 三島の歴史用 09江戸時代 年貢 県治要略 三島の歴史用
上:矢田之郷検地帳 慶長8年(1603) 中 鈴木家文書 
下:検地之図、年貢取立之図 安藤博「徳川幕府県治要略」


 幕府や大名は検地を行い、田畑や屋敷地の面積や等級、持ち主を確定し、その結果に基づいて土地の持主に年貢を納めさせました。年貢は村が責任を持って納めることとされたためこのやり方を「村請制(むらうけせい)」といいます。
 大きな災害(日照り、冷害、水害、虫害など)があった場合は役人が被害状況を確認した上で年貢が減額されることもありました。


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