(第236号)東海道を通った人・もの【1】~朝鮮通信使~ (平成20年1月1日号)

 朝鮮通信使は、朝鮮国王から派遣された外交使節です。慶長十二年(一六〇七)の第一回から文化八年(一八一一)まで全十二回ほど日本を訪れましたが、この通信使が最初に来日してからちょうど四百年が過ぎました。  

 「通信」とは「信を通わせる」という意味です。朝鮮王朝では「日本通信使」と呼んでいましたが、第三回までの使節は「回答兼刷還使」と呼ばれました。豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日本に強制連行された人たちを引き取る目的と、日本からの国書に回答する目的があったからです。  

 室町時代から秀吉の時代までにも何度か朝鮮通信使は訪れていますが、文禄・慶長の役で両国の関係は悪化しました。慶長十二年の使節団は、誕生したばかりの徳川政権にとって両国間の関係を修復する大切な第一歩でした。四回目以降は、お互いに友好関係にある国と認められて通信使と呼ばれるようになり、将軍の就任など日本 側の慶事に合わせて訪れました。  

 通信使一行は国王の親書を携えた正使・副使・従事官の三使をはじめ、学者など一流の文化人や芸人たち総勢三百人から五百人もの大使節団でした。この大部隊が半年から一年をかけて日本と朝鮮半島を往復したのです。幕府は歓迎のために百万両(現在の約一千億円)もの莫大な費用をかけ、庶民も準備や手伝いのために動員されたり、行列見物に出掛けたりしました。日本側の警護や荷物運びの人足を加えると三、四千人もの行列が移動したため、多くの絵画や各地域の祭りに通信使行列の姿が遺されています。  

 通信使は江戸までの東海道を往復する際に三島宿にも泊まりました。十二回の来日のうち二回は江戸まで行かなかったので、十回ほど三島を訪れたことになります。  

 現在の中央町にある三菱東京UFJ銀行から南へ入る小路はその昔「唐人町」と呼ばれ、通信使の下級随行者が泊まった地域といわれています。また通信使が来る前には幕府の命により街道の整備が行われますが、箱根西坂の石畳は第七回の通信使が来る前の延宝八年(一六八〇)に整備されたのが始まりです。さらに三ツ谷の松雲 寺には宝暦十四年(一七六四)第十一回通信使の休憩所として本堂と庫裡を改築した際の棟札が残されています。芝本町の長円寺には通信使から贈られたと伝えられる袈裟と数珠が寺宝として大切に保管されています。  

 このほか『豆州志稿』を著した秋山富南も第十一回の通信使と熱心な詩文の応酬があったといわれ、朝鮮通信使は三島にとってさまざまな影響を与えたことがわかります。
【平成20年 広報みしま 1月1日号 掲載記事】