鎌倉幕府を開き、征夷大将軍となった源頼朝は、三島市をはじめとする伊豆半島とゆかりが深いことで知られています。
本格的な武家政権である鎌倉幕府を開いた源頼朝は、十四歳から二十年間を流人として伊豆韮山の蛭ヶ島(伊豆の国市)で過ごしました。このため、伊豆半島には多くの頼朝の伝説が残っています
頼朝は、平治の乱(一一五九)で父、義朝や兄たちを殺されたことも影響し、信仰心が厚く、般若心経を写経し各地の神社や寺院に奉納しました。
また、伊豆国一ノ宮である三嶋大社をことに大切にし、源氏再興のため百日祈願に通ったといわれています。三嶋大社の祭礼日(八月十七日)に合わせて韮山で旗揚げした頼朝は、見事、源氏再興を果たしました。この後平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開くことに成功します。
頼朝は三嶋大社に感謝し、所領を寄進、社域を広げ神池を整備します。また下田街道を大社から南へ真っすぐに整備しました。大社の門前には大きな市がたち、この後、長く繁栄することとなります。
現在、三嶋大社では頼朝が境内を参拝した時に妻の政子と共に座ったといわれている「腰掛石」や、春には桜が大変美しく景色を彩る「神池」、頼朝の従者である盛長が警護していたと伝わる「相生松」が残されています。
三嶋大社の宝物殿には、妻の北条政子が奉納した国宝「梅蒔絵手箱」(レプリカ)や、頼朝直筆の「源頼朝文書」も展示されており、三嶋大社との深いかかわりを感じることできます。
毎年8月15日、16日、17日には三嶋大社を中心とした三島市最大のイベント「三嶋大祭り」が開催されます。 「三嶋大祭り」の期間中16日に開催される「頼朝公旗揚げ行列」は、頼朝が旗揚げし源氏復興を果たした故事によるものです。毎年異なる芸能人が頼朝役として出演し、市民も当時の出で立ちで市内をまわり、盛り上がりを見せています。
大社の大鳥居前を起点に旧下田街道を歩いていくと、祈願の時に仮眠をとった「間眠松」(間眠神社)や、頼朝が旗揚げの成功を記念して心経を写経して奉納したと伝わる「経塚」がある法華寺もあり、三島市内には頼朝に縁のある場所が多く残されています。
三嶋大社
頼朝が百日祈願を行い、特に大切にした場所
法華寺
旗揚げの成功を記念して心経を写経して奉納したと伝わる「経塚」がある
心経寺
元は法相宗の寺であったものを頼朝の命によって真言宗に改め、寺号も神鏡寺と称するようになったといわれる
間眠神社
頼朝が百日祈願の際境内の松の下でまどろんだという伝説がある。現在は六代目の間眠松と頼朝が休んだといわれる大石がある
妻塚観音堂
頼朝が百日祈願に通っていたある日、頼朝を付け狙う男が頼朝と思って切り殺したのは止めに入ろうとした自分の妻で、その妻を祀ったのがこの妻塚といわれる
願成寺
頼朝の百日祈願の時に宿所となり、平家打倒の願いが成就した後に寺号を賜ったという寺伝をもつ
コマタケさんの大石
頼朝の馬の足跡が残るといわれる大石で、現在は足の神様として大切に祀られコマタケさんと呼ばれている
宗徳院
頼朝が百日祈願へ通う折この寺の地蔵菩薩にも祈願したと伝わり、年代不詳ではあるが頼朝像が安置されている
周福寺
元は頼朝が三嶋大社参詣の折、いつも休んでいたという稲荷神社(現在の間眠神社)前の小堂で、1190年にこの地に移して寺としたとつたわる
手無地蔵堂
田街道沿いにあり頼朝が三嶋大社へ百日祈願に通っていた際、この辺りを通った時にこのあたりにいた美女がいて、ある日話しかけてきた時にうるさく思った頼朝が美女の片腕を切り落としたところ手のない地蔵になったという伝説がある。
右内神社
頼朝が百日祈願の際たびたび立ち寄ったが境内に水が無かったためなぎなたで地面をついたところ水が湧き出たという伝説がある
駒止の橋
頼朝が右内神社を参詣した際、従者が馬を止めて休ませたといわれる場所
駒爪橋伝承地
頼朝が馬で鎌倉から足柄山を越えて富士川方面に向かう際、徳倉付近で石橋を渡っている時、石橋山の戦いでの敗戦を思い出し橋に槍の石突を突き立てたので橋にはそのあとが残ったという伝説がある場所。その場所は現在の幸原山橋と伝えられているが詳細は不明
このように三島市内では多くの頼朝との関りを見ることができます。
三島市内だけでなく、現在の函南町や伊豆の国市、伊東市、三島市近隣の市町をはじめとする伊豆半島にはゆかりの史跡や言い伝えが数多く残されています。
三島市役所公式ホームページ