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名水から生まれた食

三島の水はなぜおいしい?

三島では富士山の湧水を水源としています。この良質の水が、たくさんの名物を生み出しました。三島市で使用される水道水は、すべて富士山からの地下水を源とし、伊豆島田水源池と湧水群のある柿田川から取水される駿豆(すんず)水道から供給されています。水質はまろやかな軟水で、微量ですが、カルシウム、マグネシウム、鉄などのミネラルや二酸化炭素を含み、新鮮でさわやかな味がします。水温も最適とされる16℃前後、pH値も中性の7.0前後、水の味を損なう有機物の量も非常に少なく、厚生省の「おいしい水の条件」を十分に満たしている安全でおいしい水です。

出典 『東富士の地下水解析』(落合敏郎)、『富士箱根湧水からのおくりもの』(三島市・三島名水調査研究会

三島の酒

東海道五十三次の宿場町であった三島には、当然のことながら酒はつきものでした。徳川時代から明治初年まで酒造業を営んできた旧家(きゅうか)「会津屋(あいづや)酒店」は、その後、会津屋嘉兵衛(へい)により「会嘉(あいか)酒造(しゅぞう)」として、平成7年(1995)までの160年間にわたり、その生業(なりわい)を続けてきました。

明治(めいじ)維新後(いしんご)、酒造りは酒造法により政府の管轄下(かんかつか)に置かれ、間接税として製造石数(こくすう)に応じて課税されるようになりました。脱税(だつぜい)の取り締まりは厳しく、各地で廃業(はいぎょう)や醤油業(しょうゆぎょう)などへの転業が相次(あいつ)ぎました。
昭和20年(1945)に終戦を迎え、戦後の酒税法により、製造、卸、小売は全て免許制になりました。会嘉酒造は三島税務署管内で最初に免許を受け、苦心の末吟醸酒(ぎんじょうしゅ)「伊豆の海」が作り出されました。

三島で酒造りに携(たずさ)わった杜氏(とうじ)には、滋賀県出身者が多く、彼らから当時の上方文化が三島に伝えられたとも言われています。

また、市内に点在していた酒蔵(さかぐら)からも、三島に由来(ゆらい)した名前の酒が幾つか造られました。三嶋大社のニワトリにちなんだ中江酒造の「初鶏(はつとり)」、井上酒造が大社の前にあったので付いた「神の前」、「楽寿(らくじゅ)」などです。しかし、残念ながらこれらの酒店は、後継者(こうけいしゃ)不足などで平成12年(2000)現在では1軒も残っていません。

1軒1軒の酒蔵の麹菌(こうじきん)と三島の水、そして人間の温もりの中で培(つちか)われてきた酒造りも、時代の趨勢(すうせい)に乗り切れなかったのでしょうか。

ワサビ(づ)

ワサビのイラスト

湧水で育ったワサビの辛さと、ほどよい味に調えられた酒粕が見事にミックスされたワサビ漬け、ここ静岡県はワサビ漬けの誕生の地です。
 江戸時代の人々は、ワサビをソバや刺し身の薬味のほか、毒消しや発汗作用があることから、風邪薬として煎じて飲んでいたようです。そのころは、ワサビの根茎のみを用いていたため、葉や茎が大量に残るので、それらを塩漬けなどの漬物として食べていました。駿府の商人が、その漬物をヒントに、いろいろ工夫し、試行錯誤の末、酒粕に細かく刻んだワサビの茎を漬け込んで、洗わずにそのままで食べることができるワサビ漬けを作り出しました。このワサビ漬けが商品として売り出されたのは宝暦3年(1753)のことでした。
 三島市内でも、数社がワサビ漬けを製造販売しています。ワサビ田は三島市内にもありますが、ワサビ漬けに使うワサビは中伊豆産のものがほとんどです。また、時期により御殿場産や他県のものを使用する場合もあるようです。
 原材料となる酒粕は、以前市内で醸造していた造り酒屋が、全て廃業してしまったため、近郊や他県の醸造元から仕入れています。
 市内にある漬物会社では日々研鑽し、厳選した酒粕を思い思いに工夫を重ね、繊維が硬くシャキシャキしたワサビを漬け込み、各社自慢のワサビ漬けを製造しています。三島産の静岡名物として観光土産店の店頭で販売されています。


取材協力 カメヤ食品 大丸食品 山本食品 万城食品


うなぎ

うなぎの蒲焼
 
三島は、うなぎの蒲焼がおいしいことで有名です。では、なぜおいしいのでしょうか。また、うなぎにまつわる話も多く残っています。



  三島のうなぎ

天然のうなぎは利根川や四万十川産が有名ですが、養殖の産地として知られているのは浜名湖でしょう。でも、三島のおいしいうなぎ料理も有名です。そのおいしさの理由は、清らかな富士山の湧水にあります。

浜名湖などの産地から三島に運ばれてきた活(い)きたうなぎは、1週間ほど餌(えさ)なしで湧水にさらされます。この間にお腹に残った餌などが吐き出され、余分な脂肪も落ち、臭みが消えておいしくなります。「うなぎの味は水の良し悪しで決まる」と言われ、ミネラルを多く含む天然の水、三島の湧水は正にこの条件にぴったり合っているのです。 

ウナギのイラスト

うなぎのまち三島

ウナギを焼くイラスト

 市内には多くの飲食店がありますが、そのうち約80軒がうなぎ料理を出しています。人口11万人に対し、その比率は全国1とも言えます。中には、安政3年(1856)、めし屋として創業した老舗(しにせ)もあります。また、蒲焼(かばやき)のほか、うなぎのハム「ウナハム」や「うなぎそば」などアイデア料理を出す店もあり、うなぎのまち三島のイメージづくりに一役かっています。


明神のうなぎの話

海で大きく育ち、故郷を目指し駿河湾まで帰って来たうなぎは、狩野川などの川を遡(さかのぼ)り水郷と言われていた三島にも上ってきたようです。1部は三嶋大社の神池へ、そして1部は梅名にある右内神社の池へ上って来ました。

三嶋大社の傍らを流れる桜川から右内神社までの間4kmは、多くのうなぎたちの楽園でした。
右内神社、別名「うなぎの宮」は左内神社と共に三嶋大社の御門の守護神で、江戸末期までは大社の社人(しゃにん)が毎月1回、必ず参拝に行っていました。右内神社西側に、今は当時の面影はあまり残っていませんが、「うなぎの池」と呼ばれた池があります。三嶋大社の使者であるうなぎが水の湧き出るこの池に集まり冬越えをする、と言われていました。里人は、うなぎを「明神のうなぎ」と呼び、たいそう大切にしていたそうです。また、この森は今よりずっと大きくりっぱな森で「うなぎの森」と呼ばれていました。

三嶋大社とうなぎの意外な関係

 古くからうなぎは、「三嶋大社のお使い」とされ、三島宿では江戸時代末期までうなぎを食べるのはご法度でした。

徳川幕府第二代将軍秀忠(ひでただ)が三島に泊まった際、家臣が大社の神池のうなぎを蒲焼にして食べたことを知り、この者を捕らえはりつけにしたと言い伝えられています。ところが、幕末に官軍に加わっていた薩摩(鹿児島県)長州(山口県)の兵隊が侵入すると、手当たりしだいに捕らえて蒲焼にして食べてしまったそうです。その後も何の神罰(しんばつ)もくだらず、三島のうなぎはことのほか美味(びみ)と東京方面でも有名になり、うなぎ屋が増えて今日のように繁盛(はんじょう)するようになったようです。

 三島うなぎ料理コンクール

 平成9年(1997)から三島市では、うなぎを素材に使ったアイデア料理を一般から募集する「三島うなぎ料理コンクール」が三島商工会議所、三島市観光協会の主催で開催されています。

 このコンクールは平成12年(2000)までに4回開催していますが、和風料理はもとよりフランス料理やピザ、クッキーなどさまざまな工夫をこらした作品が、毎回県内各地から寄せられています。



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