神社見目神社(みるめじんじゃ) (佐野)三島市佐野の入り口、梨坂(なしざか)にある見目神社は、三嶋大社の摂社(せっしゃ)(注)で、祭神は三嶋大社の事代主命(ことしろぬしのみこと)の妃(きさき)六柱(はしら)を祀(まつ)っています。例祭は10月15日です。最初、この神社は山上にありましたが、天正(てんしょう)18年(1590)、秀吉の小田原城攻めの兵火に遭い焼失したため、寛永10年(1633)、社を現在の地に移しました。 拝殿前の左手には卵形の石が置かれており、福石(ふくいし)と呼ばれています。末社である福石神社のご神体です。「この神様にお百度参りした後、軽く石を持ち上げることができたら願いが叶(かな)う」という伝説がありました。現在は、福石をなでると福が授かると言われています。 なお、境内には三島市名木指定の樹齢500年のスダジイ、樹齢300年のカゴノキがあります。 (注) 本社に付属し、本社に縁故の深い神を祀った神社。本社と末社との中間に位する。出典 『三島市誌 下巻』p.566、『田方神社誌』p.16
八乙女神社(やおとめじんじゃ) (徳倉)三島市の北方、徳倉にあり、祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)で、古くから子宝に恵まれるという安産の神様です。この女神が天(あま)の岩戸(いわど)の前で歌舞をし、隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を無事外にお迎えしたことから芸能の神としても信仰を集めています。「うずめ」とは、貴い女、珍しい女、美しい女の意味です。なお「お多福めん」は、日本女性美のシンボルといわれていますが、この女神の象徴ともされています。 (注) 神社に財産を寄付すること。 耳石神社(みみいしじんじゃ) (幸原町2丁目)鳥居をくぐり参道を本殿に向かって進むと、行く手を阻むようなシイの巨木があります。これが神社の御神木(ごしんぼく)で、和名はスダジイ(イタジイ)です。根周り6m、樹高15m、樹齢330年、三島市指定文化財で、天然記念物となっています。 祭神は国狭槌尊(くにのさつちのみこと)です。昔から耳の病を治す霊験(れいけん)あらたかな神社として伝えられています。社殿前に、注連縄(しめなわ)のかかった高さ1.2m、周囲2mくらいの耳に似た石があるので、この名が付けられたと伝えられています。耳石は三島七石の1つでもあります。耳に病気のある人が、この神社に参詣(さんけい)し、次いでこの石に祈り、全快したときには小石に穴を開け、糸に吊るして奉納する慣わしがあります。現在、社殿の右の小さな社(やしろ)に、石がたくさん吊り下げられています。 この神社も天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで焼失し、社の由緒など知ることができません。再建は元和元年(1615)です。 出典 『三島市誌 下巻』p.565、『田方神社誌』p.11、『Welcome toふじのくに 三島』p.73 賀茂川神社(かもがわじんじゃ) (加茂川町)古来より須佐之男命(八坂大神(やさかおおみかみ))は毎年7月8日に三嶋大社にお出ましになり、同月15日に三島市内をめぐって、疫病除(えきびょうよけ)の祈祷(きとう)をしていたと伝えられていることから、厄除(やくよ)けの神、縁結びの神といわれています。今でも毎年7月15日に町内安全、疫病(えきびょう)鎮護(ちんご)を祈願して神輿(みこし)が三島市内を練り歩きます。現在はJR東海道新幹線とJR東海道本線の線路に挟(はさ)まれ、石段を上り詰めたところに、昔をしのぶ社殿があります。 長老の話によると、旧名の八坂神社は、同じ神を祀る京都の八坂神社にちなんでいるとのことです。京都の八坂神社は小高い丘の上にあり、その近くに有名な花街(はなまち)、祇園(ぎおん)があることからこの丘を「祇園山」と呼び、神社も「祇園さん」と呼ばれ親しまれてきました。 出典 『三島市誌 下巻』p.558、『田方神社誌』p.4、『Welcome toふじのくに 三島』p.53 浅間神社 (せんげんじんじゃ)(芝本町)古くは三嶋大社の別宮(べつぐう)で、神階(しんかい)正五位を授けられ三嶋大社に次ぐ名社でした。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、波布比売命(はぶひめのみこと)を主神とし、瓊々杵命(ににぎのみこと)、火明命(ほあかりのみこと)、火蘭降命(ほすせりのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)が祀られています。元は伊豆大島波浮(はぶ)港にありました。 およそ1万4千年前の富士山の大噴火のとき、ここで溶岩の流れが止まったので、岩留浅間(いわどめせんげん)ともいわれています。ここから湧き出していた水は、富士山の雪解け水で三島の水源ともなっていました。 JR御殿場線開通前までは、三島宿からの富士登山者は必ずこの神社にお参りしたようです。そのゆかりで毎年7月1日の富士山の山開きには浅間神社も協賛し、JR三島駅前で農兵節踊りが奉納されます。7月15、16日は、芝岡神社も合わせて祭りが行われます。据置山車(すえおきだし)が出て、しゃぎりや子ども神輿(みこし)、民謡踊りなどが行われ、露店も並び、三島では三嶋大社の夏祭りに次ぐ賑(にぎ)やかなものです。 出典 『三島市誌 下巻』p.558、『田方神社誌』p.3 『Welcome toふじのくに 三島』p.57 若宮神社(わかみやじんじゃ) (西若町)三島市の西方にあり、地元の人々から「八幡(はちまん)さま」と親しまれ、西地区11町の総氏神(そううじがみ)として敬(うやま)われています。 武道の神である譽田別命(ほんだわけのみこと)を祀った八幡神社であったと伝えられています。宝暦3年(1753)に、代官山本平八郎が改築したと言われる社殿は、流造(ながれづく)りの本殿と入母屋(いりもや)造りの拝殿からなり、境内にはヒイラギ、マキの巨木、イチョウがあり、市民の憩いの場となっています。 また、文筆や学問の神として、名高い菅原道真公(すがわらみちざねこう)を祀った天神社もあり、地元の受験生がお参りに来ます。1月最終の日曜日に入試合格祈願祭を行います。 毎年5月14、15日は西地区11町の全住民参加の祭典が行われ、14日には、西地区11町内の安全祈願祭をして、神輿(みこし)の渡御(とぎょ)をします。境内や神社前の通りには、露店が並び、神輿、しゃぎり、日本舞踊、カラオケ大会と、大人から子供までが楽しみにしているお祭りが繰り広げられます。 出典 『三島市誌 下巻』p.554、『田方神社誌』p.8 『Welcome toふじのくに 三島』p.81 八坂神社(やさかじんじゃ) (中央町)八坂神社の祭神は、素盞之男命(すさのおのみこと)で三島市中央町(旧久保町)にあります。創立の時代は、はっきりしませんが、三島宿が江戸時代再々大火に見舞われ、そのうえ疫病(えきびょう)が流行し、人々を脅(おびや)かしたので、火防(ひぶせ)の神である秋葉の神と、疫病の神である素盞之男命を氏神(うじがみ)として祭祀(さいし)を盛大に行なうようになりました。 出典 『三島市誌 下巻』p.560、『田方神社誌』p.17、『Welcome toふじのくに 三島』p.79 三石神社(みついしじんじゃ) (広小路町)この神社には豊受姫大神(とようけひめのおおみかみ)が祀られていて、大中島町の氏神(うじがみ)です。昔、源兵衛川の川沿いに三石(みついし)という巨石があり、その上に社殿を建て稲荷社を祀り、三石神社となりました。古記によれば天明年間(1781〜1789)に、隣村の新宿(しんしゅく)の出火で大中島町(現、本町)や三島宿の大半が類焼したときに、火防(ひぶせ)の神も併せ祀ったようです。文政7年(1824)2月の遷宮(せんぐう)(注1)の棟札(むなふだ)(注2)には「正一位火防三石稲荷大明神」と記されています。 その後文久年間(1861〜1864)に焼失しましたが、三嶋大社の日記によると文久3年(1863)8月29日に、「三石稲荷大明神普請(ふしん)につき社家(しゃけ)鳥居左次馬(とりいさじま)をして遷宮祭を奉仕せしめた」と書かれています。慶応元年(1865)7月、再び京都の伏見稲荷大社より分霊を受け、祀られたということです。平成3年(1991)に少し南に移り、現在の地に建て直されました。 毎年5月の例祭初日には、三嶋大社の神主による神事が行われ、境内には露店が並び、舞台も作られ、しゃぎり、カラオケ、ビンゴゲーム大会などが町内会、商店会の協力のもとに賑やかに催されます。 (注1)神社に祀つてある御霊(みたま)を新しい建物に移すこと (注2)建築工事の由諸(ゆいしょ)、年月、建築者などを記して棟木に打ち付ける札 [時の鐘]三石神社の境内にある鐘は、「時の鐘」と言われ、江戸時代から旅人や三島の人に親しまれてきました。最初は寛永年間(1624〜1643)に鋳造(ちゅうぞう)され、その後何回か改鋳されました。特に大きな鐘が宝暦11年(1761)に川原ヶ谷の鋳物師(いものし)沼上忠左衛門祐重(すけしげ)によって造られ、三石神社境内に設置され三島八景の1つにも数えられていました。三島宿の人たちはこの鐘の音で時を知りました。しかし第2次世界大戦時にこの鐘も軍戦用に供出され、現在の鐘は昭和25年(1950)に市民の有志によって造られたものです。「時の鐘」の存在は、当時の三島のにぎわいを示すもので、最近では、管理人により毎日夕方6時に鳴らされ昔をしのばせています。5分前に来れば、誰でも打たせてもらえます。また、大晦日(おおみそか)には除夜祭が行われ、申し込みをして、整理券の交付を受けた人のみ打つことができます。除夜祭の受け付けは、12月31日午後10時半ごろです。 出典 『三島市誌 下巻』p.556、『田方神社誌』p.39、『Welcome to ふじのくに 三島』p.71 御殿神社(ごてんじんじゃ) (南本町)御殿神社の祭神は、宇迦魂神(うかのみたまのかみ)で、稲荷神社です。社は南本町(旧、小中島)にあります。ここは、三島の中心街で、元御殿川の川端に祀られていましたが、明治6年(1873)中島神社と改められ、更に明治12年(1879)高台字(あざ)御殿に移り、御殿神社といわれるようになりました。 御殿というのは、宝暦11年(1761)の記録によると、江戸時代第三代将軍徳川家光が元和9年(1623)7月京都に上るとき、宿泊するために御殿が造られたことに由来しています。この御殿を守るために、その鬼門に御殿神社が祀られたと言われています。 なお、この祭神は、多くの人たちに崇拝され、商売繁盛の神としても崇められています。また、稲荷信仰として、多くの人たちが家の中に神棚を設けて、屋敷の守護神として祀り、2月の初午(はつうま)には幟旗(のぼりばた)を立てて奉納する慣習があります。 → 御殿 出典 『三島市誌 下巻』p.555、『田方神社誌』p.18、『Welcome to ふじのくに 三島』p.55 楊原神社(やなぎはらじんじゃ) (北田町)三島市役所の裏側(西側)に回ると、楊原神社があります。三嶋大社に次ぐ古い神社で、伊豆国(いずのくに)三の宮です。祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)で、田町の氏神様(うじがみさま)として祀られています。 『豆州志稿』(ずしゅうしこう)(注1)によれば、この神社は式内社(注2)で、そのころ伊豆国領内であった沼津の香貫に祀られていましたが、国境が変わったため、「伊豆三島御殿地(注3)に遷祀(せんし)(注4)された」と記されています。ところが元和(げんな) 9年(1623)、第三代将軍家光上洛のために三島御殿を建てるに当たり、現在の地(三島市役所西)に移転されたそうです。 鳥居をくぐると、すぐ右側に三島の七石(ななせき)の1つ蛙石(かえるいし)があります。そして樹齢300年というケヤキの大木が、本殿を囲むように立ち並び、この神社の古い歴史を物語っています。 (注1) 作者は秋山富南で、伊豆の国の地理、地形、里程、村落、川などが詳細に記録されている。 (注2) 『延喜式』の神名帳に記載されている神社。延喜式とは、平安時代、宮中での年中儀式や制度などを漢文で書いたもの (注3) 今の三島市立社会福祉会館の辺りで、もとは楊原と言われていた所、後に御殿が建てられたため御殿地となった。 (注4) 神社を移すこと 出典 『三島市誌 下巻』p.559、『田方神社誌』p.7、 『Welcome toふじのくに 三島』p.77 秋葉神社(あきはじんじゃ) (加屋町)三島市に秋葉神社を祀るようになったのは、慶安元年(1648)から宝歴2年(1752)の間に、町が数度の大火に見舞われたからです。三島は、冬になると季節風が強く吹き寄せるため、この時期に火災が起こると、いつも大火災となってしまったのです。そこで、三島の一番西の町(現在、清水町との境の加屋町)に、火防(ひぶせ)の神として信仰を集めている遠州の秋葉山本宮、秋葉神社の御分霊を祀る神社を創建したと伝えられています。 社殿は安政元年(1854)の大地震に倒壊して仮殿(かりどの)のままですが、三島市で唯一の火の神として、広く市民の信仰を集めています。 出典 『三島市誌 下巻』p.556、『田方神社誌』p.40 『Welcome toふじのくに 三島』p.49 間眠神社(まどろみじんじゃ)(東本町2丁目)稲荷(いなり)神社の祭神である豊受姫命(とようけひめのみこと)を祀った間眠神社は、旧二日町(現、東本町)にあります。 治承(じしょう)4年(1180)源頼朝(鎌倉幕府創立者・征夷大将軍)が、伊豆の蛭ケ小島(ひるがこじま)に流されていたとき、三嶋大社に源氏再興の願(がん)を立て、参詣(さんけい)の途中、この神社の境内の大きな松の木の根元で仮睡をしたことから,間眼神社と言われるようになりました。 大昔,この神社は韮山町の長崎に祀られていましたが、狩野川の大きな氾濫によって、その祠(ほこら)が二日町に流れ着いたため、この地に祀られるようになったと言われています。その縁で現在でも、8月1日の例祭日には韮山町の長崎から「大注連縄」(おおしめなわ)が奉納されています。その縄は,長さ2〜3m、重さ8Okgにも及ぶ大きなものです。 また、二日町という地名の起こりは、昔、毎月2日に市(いち)が開かれたことから付けられ、間眠神社はその市の神様でもありました。この神社は、下田街道の名社の1つでもあります。 出典 『三島市誌 下巻』p.555、『田方神社誌』p.6、『Welcome to ふじのくに 三島』p.61 劔刀石床別命神社(つるぎたちいわとこわけのみことじんじゃ) (谷田)この神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀(まつ)る延喜式(えんぎしき)内(注)の古社で、現在谷田に鎮座しています。祭神名は、竹倉の山麓から流れ出る谷水を飲料水及び田畑の灌漑用水(かんがいようすい)(田畑を潤(うるお)すための用水)として使って生活していた時代に、その源泉を神の象徴と仰ぎ、天然自然の恩恵(おんけい)に感謝し、信仰を捧げるところから付けられたとみることができます。 境内の中央に本殿があり、その左側に山神社、右側に天神社が祀られています。天神社の前には土俵があり、10月15日の祭典には子供相撲が行われます。 (注) 平安時代の法典、延喜式の神名帳に記載されている神社 出典 『三島市誌 下巻』p.561、『田方神社誌』p.19 右内神社 (うないじんじゃ)(梅名)この社の祭神は櫛石窓命(くしいわきまどのみこと)で、梅名区に祀られた神社です。近くに梅名川に連なる「うなぎの池」と呼ばれる池があり、そこには三嶋大明神の使者と言われた鰻(うなぎ)が川を下って集まり、冬越えをしたと言われています。それでこの神社は「うなぎの宮」と呼ばれ、氏子(うじこ)は鰻を食べない習慣が明治の初めごろまであったと言われています。 左内神社とともに三嶋大社の御門の守護神で、下田街道を挟んで左右に祀られ、古くから武家に敬(うやま)われていました。種々の文書(もんじょ)や宝物がありましたが、火災に遭い、ことごとくなくなってしまいました。 → うなぎ 出典 『三島市誌 下巻』p.569、『田方神社誌』p.10 左内神社(さないじんじゃ) (中島)この神社の祭神は、阿米都瀬気多知命(あめつせけたちのみこと)、もと中島字(あざ)園田に祀られており、梅名の右内神社とともに三嶋大社の御門の守護神として、下田街道の左右に祀られ、古くから土地の武士の棟梁(とうりょう)に敬(うやま)われていました。明治19年(1886)2月に火災に遭い、建物を全部焼失し、宝物(ほうもつ)、古文書(こもんじょ)が全部なくなってしまいました。明治20年(1887)4月に現地に移転新築し、昭和16年(1941)に改築され今日に至っています。 増訂(ぞうてい)『豆州志稿』(ずしゅうしこう)によれば、この神社は式内父梨(ちちなし)神社であると書かれています。 出典 『三島市誌 下巻』p.569、『田方神社誌』p.9、『Welcome to ふじのくに 三島』p.51 大場神社(だいばじんじゃ) (大場)この神社の祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と誉田別尊(ほんだわけのみこと)です。この土地がまだ沢の郷と言われたころから御獄権現(みたけごんげん)と呼ばれて祀られていて、人々から敬(うやま)われていました。天正18年(1590)に豊臣秀吉が韮山城を攻め落としたときに兵火に遭(あ)い、社宝や記録類もなくなってしまい由緒を知ることができませんが、かなり古い神社のようです。 この神社には、神明造(しんめいづくり)(注)の立派な本殿があり,大正13年(1924)に拝殿と鳥居が改築されました。 (注) 神社本殿形式の1つで切妻造(きりづまづくり)、平入(ひらい)り(棟(むね)に平行な側面に入口がある)で屋根に反(そ)りがない 出典 『三島市誌 下巻』p.571、『田方神社誌』p.5、『Welcome toふじのくに 三島 』p.59 神明宮(しんめいぐう) (御園)御園(みその)にあるこの神社は、『吾妻鐘』(あずまかがみ)や『豆州志稿』(ずしゅうしこう)などの記録によると寛弘2年(1005)に創建され、天照大日霊尊(あまてらすおおひるめのみこと)が祀(まつ)られています。源頼朝が蛭ヶ小島(ひるがこじま)から兵を興(おこ)して、いちはやく三嶋大社へ献納(けんのう)した社領はこの御園でした。 境内は広く、イヌマキ(30本余)、クスノキ(7本)、モチノキ、ケヤキなどが多数植えられていて、いずれもよく生育し、樹高30m前後のものが大部分です。中でも樹齢が300年余と推定できるものとして、クスノキ(5本)、イヌマキ(5本)などがあります。 社叢(しゃそう)(神社の森)もよく整備されていて、昭和59年(1984)に静岡県の「ふるさとの自然百選」に選定され、平成8年(1996)に三島市指定文化財天然記念物となっています。 出典 『三島市誌 下巻』p.567、『三島市誌 増補』p.11『田方神社誌』p.22 祓所神社(はらいどじんじゃ) (大宮町1丁目)この神社は浦島神社とも呼ばれ、旧三島宿裏町(浦町・現、大宮町)の氏神として祀られてきました。毎年6月30日と12月31日を祭日とし、禍(わざわい)から守られるよう大祓式(おおばらいしき)を行います。この地域は大昔、清水が湧き出し神社は島の中にあったと言われています。地元の人はこの池を「はらいど」と呼び、三嶋大社の祭事に当たり関係者が大祓を行っている場所です。 現在は神社の西側の道路下を桜川が流れていますが、昔はこの川の−部が現在の池と連なっていたと言われます。この神社は祓戸四柱神(はらいどしばしらしん)を祀る三嶋大社の摂社(注)で、由緒ある社です。 (注) 本社に付属し、本社に縁故の深い神を祀った神社 出典 『Welcome to ふじのくに 三島』p.49 神社一覧表
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(注) 祭典日は他の日もあります。 出典 『三島の現況図』、『田方神社誌』
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