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農業マップ

三島の農業マップ

箱根(はこね)の農業

 箱根の畑は斜面を切り開いて作られ、約55ha広がっています。火山灰土が積もってできた土地で、土が深く雨が降っても固まらないので、ニンジンやダイコンなど「根もの」といわれる作物に適しています。昔から、これら「根もの」はおいしいことで有名で、東京や関西方面にまで出荷していました。

 技術や化学肥料の発達で収穫量は増えましたが、最近は箱根の農家も減少しつつあります。また消費者の嗜好
(しこう)も変わって、「根もの」中心から、レタスやキャベツ、ハクサイなど「葉もの」中心に変化しています。また、最近では、静岡方面で久能イチゴの裏作としてのショウガ作りをしていて、そのために箱根で作った種ショウガを出荷するというネットワーク型の農業も始まっています。他にも、自然農法にこだわるなど、各農家に特色のある作物を作るようになっています。


北上(きたうえ)の農業

昭和10年代の田園風景
昭和10年代の田植え風景
                昭和10年代の開墾風景
昭和10年代の開墾風景


 旧北上村は、明治22年(1889)町村制が実施されたとき、近隣の村落が1つとなり発足しました。その後、昭和10年(1935)4月、三島市と合併して北上村の名称は消えました。大正12年(1923)の統計によると北上村の総数379戸の内、354戸が農業という、純農村地帯でした。大場川(境川、大川、神川(かんがわ)とも呼ばれる)に沿った水田と溶岩原上(ようがんはらじょう)の桑畑、山に開墾された根菜(こんさ)用山畑を耕(たがや)すのが、農家の日課でした。昭和4年(1929)に徳倉小学校から発行された文集に掲載(けいさい)された子供たちの作文には、当時の北上村の農村風景、農作業の様子が生き生きと表現されています。次にその一文を原文のまま紹介します。
 
               私の村

    昭和4年(1929)   徳倉小高等科1年
                     芹沢道枝


 私たちの村は東には箱根連山が高く、南には天城を遠く望み、北には清き富士山が高く聳(そび)へている。村は大部分が山である。大川にそひ、山あひの彼方此方(あちこち)に散在する佐野、萩が窪(はぎがくぼ)、徳倉、幸原、一丁田、澤地と言ふ六つの山間部落を一村に合はせて北上村と呼ぶ。これが私の村である。

 徳倉は村の中心地で学校もあれば役場もある。気候は大変よいので農業はかなり発達している。甘藷
(かんしょ)、人参(にんじん)、西瓜(すいか)、米は主な産物で産額多く質もよいので大阪市場の方では北上産のものと言へば随分に評判がよいそうである。牛、馬のような家畜も大分(だいぶ)飼育して居るが他町村に比較するとまだまだ劣っている。蚕(かいこ)は一年に百貫位の収繭(しゅうけん)(注)をする家は年増しに増えてくる。村人は勤労家で蚕時、田植、秋の収穫には目の廻る様に働く。澤地には名高い龍澤寺があって三月の御曾式(おえしき)には仲々の賑わひだ。幸原には組合があって村内で生産された物の販売や信用の方もやって発展している。私はこの恵まれた村で益々奮起(ふんき)して村の為めにお盡(つくし)したいと思ふ。

(注) 蚕のすだれから、繭(まゆ)を抜き取る作業


 昭和30年代になって北上地域の南に東洋レーヨン(現、東レ)の大工場が建設されたころから、工場労働者やサラリーマンが増え始め、また三島駅に近いため、昭和40年代から丘陵地に住宅用地が次々と開発されました。

 一方、農作業は、農業から離れる家も多くなっていき、農地は住宅で埋まっていきました。平成12年(2000)現在、農村地区として残っている伊豆佐野地域でも、丘陵地に大きな団地が建設されており、今後農業を続けていくうえでの問題点は多いようです。

出典 『企画展きたうえ村』


中郷(なかざと)の農業

昭和28年建設時の中郷温水池
昭和28年っ建設時の中郷温水池
 中郷地区は古くから、楽寿園の小浜池から流れていた源兵衛川の水を利用していました。しかし、それだけでは足りなくなり昭和11年(1936)には、御殿川の水も流れ込むような工事をしました。これらの水は湧水でとても冷たかったので、田んぼで使用の適温まで水の温度を上げるために昭和28年(1953)に中郷用水組合では温水池を作りました。ここには4カ所の水の出口があって、中郷の大部分の灌漑用水となっています。

 また、大場のちんぴ稲荷には耕地整理碑がありますが、これは大村和吉郎が地域の人たちと協力して、小さないろいろな形をした水はけの悪い田を改善するために、耕地整理をしたのを記念して建てられたものです。このように昔からこの地域では、川の氾濫(はんらん)や未整理の耕地に悩まされながら工夫をし、大変な苦労をして現在の水田地帯を作り上げたのです。それでも水は十分ではないために田植えの時期には水の管理にとても苦労していて、自転車で見回りをしている地区もあるそうです。

 稲作の他にも中郷から錦田地区にかけて、イチゴやトマト、ナスの栽培が盛んで露地(ろじ)栽培(さいばい)やビニールハウスなどで作られています。また、牛や豚を飼うなど酪農をしている農家もあります。

 中郷地域の今後の展開として、三島市では「田園が似合う、住み良いまちづくり」をめざし、農業基盤整備を進め、農地の保全と住宅地のスプロール化(注)の防止を図っています。

(注) 市街地が無計画に拡大し、虫食い状の無秩序な市街地を形成すること。
出典 『郷土資料館だより第66号』



三島函南農業協同組合(みしまかんなみのうぎょうきょうどうくみあい)

三島函南農業協同組合の写真 三島では、都市化が進む東海道ベルト地帯の中にあって箱根西麓丘陵地の露地野菜、畜産、平坦部の水稲(すいとう)、施設野菜など立地条件を活かした農業が盛んに行われてきました。特産物は、ダイコン、ゴボウ、ニンジン、ジャガイモ、トマト、イチゴ、ナスなど種類も多く、政府の減反(げんたん)政策に対応して、チェリートマト、レタス、セロリーなどの栽培の取り組みも行われています。三島特産のなかでもジャガイモはその品質の高さから日本一と評価されるほどで、その取り持つ縁は、北海道の厚沢郡の農協と姉妹(しまい)縁組(えんぐみ)を結ぶにいたっています。

 昭和46年(1971)市内の北上、錦田、中郷の3農協合併後、ただちに本支所を中心とした施設の整備に取り掛かり、その後さらに加茂、北の2店舗を開設し、市内全域をカバーするなど、組合員及び地域住民の期待と信頼に応えうる体制づくりを進めてきました。

 しかしながら、農業はしだいに他産業への労働力の流失、農地の宅地化が進み、離農や兼業農家が増大して農業への不安すら抱かざるをえない時代へ突入し、農家もJAも厳しい経営を余儀なくされています。そうした幾多の困難に立ち向かい、その都度協同活動を支えとして営農生産基盤の確立、JA施設の拡張に全力を傾注し、今日の基礎を固め、平成5年(1993)隣接するJA函南と合併して、新生「三島函南農業協同組合」(JA三島函南)として出発しております。

出典 『静岡県農協50年史』、『静岡県農協30年史』


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