(第385号)地域の歴史―笹原新田―(令和2年6月15日号)

 今回は箱根西麓に位置する笹原新田と、地域の歴史を伝える史跡をご紹介します。

 箱根西麓の東海道沿いには、五ヶ新田と呼ばれる五つの集落があります。これらの集落は、徳川幕府が行った街道整備に伴い、元和年間(1615~1624)に三島や近隣の村からの移住によって作られたといわれています。笹原新田は五ヶ新田のうち三島から四つ目にあたる集落で、もう少し山を登ると山中城のある山中新田です。江戸時代は一町50間程(約200メートル)の長さで街道沿いに家並みがあり、三石余の村高がありました。もとは小さい竹を意味する「篠」の字を使って篠原と書いたとされ、箱根山に多いとされる小竹が生い茂る場所であったことから名付けられたと考えられています。  

 東海道と密接に関わる五ヶ新田の集落では、街道交通に関する仕事がさかんでした。笹原新田でも、駕籠舁(かごか)きや旅人相手の茶屋経営などを行う住民がたくさんいました。集落内には江戸時代の旅で距離の目安となった一里塚が今も残されています。  
 このように東海道の交通とともに発展してきた笹原新田ですが、明治時代になると状況は一変します。明治22年(1889)に東京から神戸を結ぶ鉄道(東海道線)が開通すると、徒歩や馬で東海道を往来する旅人が激減し、住民たちはこれまでの旅人相手の仕事では食べて行けなくなってしまったのです。

 そこで住民たちは、新たに畑を開墾して農業に従事するようになりました。開墾には様々な苦労が伴ったようですが、水はけがよくミネラルが豊富な土地や涼しい気候が野菜栽培に適しており、今では「箱根西麓(はこねせいろく)三島野菜」として有名です。なかでも大根は、平井源太郎が農兵節を使ったユニークなキャンペーンを行ったこともあり戦前から全国的に知られており、「たくあん」にして近隣の温泉旅館に販売したほか、戦時中には軍の保存食糧として、戦後は食料不足を補う副食として全国へ出荷されました。

 笹原新田の一柳院(山中城の戦いで戦死した一柳直末を弔う)に建てられた笹原開墾碑には、社会情勢の変化によって方向転換を強いられた村人らの苦労と誇りが記録されています。

笹原一里塚

笹原一里塚:現在は椎の木があるが、幕末の記録では松だった



笹原開墾碑

笹原開墾碑:明治38年に建てられた碑(一柳院境内)



【広報みしま 令和2年6月15日号掲載記事】