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三島の古典文学

街道の要地(ようち)、三島に残された古文書(こもんじょ)


 三嶋明神に関する古文書

『日本書紀』『続
(しょく)日本書紀』『三代実録』『愚管抄
(ぐかんしょう)』『吾妻鏡(あづまかがみ)』『山槐集(さんかいしゅう)』『曽我(そが)物語』『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』などに、
三嶋大社に関する記述が多いのが、古い都三島の特徴です。


新後撰集(しんごせんしゅう)』・『玉葉集(ぎょくようしゅう)

 鎌倉期の奉行(ぶぎょう)三島左衛門(さえもんのじょう)や伊豆
三嶋の神社社家
(しゃけ)伊豆氏の西大夫盛継(にしたゆうもりつぐ)は、歌人としても有名です。

 ぬるうちもいかにたのみてはかれとも
    契らぬ
中の夢をますらむ
                           (新後撰集 恋二の歌)

 苔のむす軒はの松は木たかくて
    みしまもあら
ぬふるさとのには
                           (玉葉集 雑三の歌)


『東関(とうかん)紀行』

 仁治(にんじ)3年(1242)8月、鎌倉に下向(げこう)するときの紀行文、海道文学のはしりです。

 「伊豆の国府、三嶋の社をおがむと庭の気色が神さびている。雨がにわかにふって緑が深々となり、おごそかな雰囲気があった。

 せきかけし苗代水の流きて天降る神ぞこの神」
   
とも歌われています。


金沢文庫(かなざわぶんこ)の『関東往還記(おうかんき)

 弘長(こうちょう)2年(1262)2月4日、興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)が、奈良から鎌倉に下向するときの日記で、
「三嶋大社に参詣をする」とあり、作者は性海
比立(せいかいひきゅう)とあります。


『十六夜(いざよい)日記(にっき)

 建治(けんじ)3年(1277)10月27日、阿仏尼(あぶつに)は藤原
為家
(ためいえ)との間の子、為相(ためすけ)の所領である播磨国
(はりまのくに)細川荘が、先妻の子の為氏が押領(おうりょう)した
ことを幕府に訴えようとして、鎌倉に至る旅日記です。
簡潔で優美な文章の中に幼児の為相を思う母心がにじみでています。

伊豆の国府といふ所にとどまる、いまだ夕日残るほど、三嶋の明神へまゐるとて詠み(たてまつ)る。

  あはれとや三嶋の神の宮柱
      ただここにしもめぐり来にけり

 
   おのづから伝えし跡もあるものを
      神は知るらむしきしまの道

 尋ね来てわが越えかかる箱根路を
      山のかひあるしるべとぞ思ふ

と書かれています。


連歌師宗祇(れんがしそうぎ)の三嶋社頭(みしましゃとう)
    千句吟
(せんくぎん)

 文明(ぶんめい)3年(1471)1月18日から4月8日まで、三島に出陣(しゅつじん)中の武将東常(とうのつねのり)を尋ねて、古今伝授をうけた宗祇法師は、三嶋社法楽吟千句を三嶋大社に残しています。

 なべて世の風をおさめよ神の春

その他の文献(ぶんけん)

 千葉に流される花山院(はなやまいん)師賢(しけん)の『桜雲記
(おううんき)』、今川氏親(うじちか)と宗祇の弟子宗長の三嶋大社を詠った句、『太平記(たいへいき)』『梅松論(ばいしょうろん)』『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』『北条盛衰(せいすい)記』
『北条五代記』などにも三嶋大社への記述が多くあります。



江戸期以降文学作品


俳聖(はいせい)(注1) 松尾芭蕉(ばしょう)

(きり)しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白(おもしろ)

芭蕉の名吟であると言われています。

 元禄(げんろく)7年(1694)、「三嶋新町、ぬまづ屋
 九良兵衛という飛脚宿に泊まる
」 
ともあります。


 どむみりとあふち(注2)や雨の花曇(はなぐもり)

などの句も三島に残された句と言われています。

(注1) 最も優れた俳人

(注2) せんだんの木


十返舎一九(じっぺんしゃいっく)
   『東海道中膝栗毛
(ひざくりげ)

 弥次(やじ)さん喜多(きた)さんの道中(どうちゅう)記では、文化
年間の市山
(いちのやま)新田(しんでん)のスッポンの話や三島宿でのゴマの蝿(はえ)と飯盛女とのやりとりが、一番の盛り上がりのドタバタと面白い場面です。


旅行記、浮世絵

 松尾芭蕉の『野ざらし紀行』、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の『東海紀行』、宝井 其角(たからいきかく)の『甲戌(こういぬ)
紀行』、シーボルトの旅行記、ドイツ人ケンペルの『江戸参府旅行記』、浅井了意の『東海道名所記』など、宿場町三島には、数多くの魅力ある、財産が残されています。広重(ひろしげ)「東海道五十三次」、豊国(とよくに)、司馬江漢(しばこうかん)の三島を描いた浮世絵も多彩で、物語性に富んでいます。

文責 中尾 勇さん  出典 『古都三島の文学散歩』



三島を愛した文人
呑山(どんざん)と『三島竹枝(ちくし)

 呑山(どんざん)
  (杉田 六江
(ろっこう)

   安政元年〜昭和20年

    (1854〜1945)

呑山の写真

  三河(現、豊橋市)生まれ。豊橋在住時代は実業家として活躍しました。しかし、幼いころから絵画や漢詩を学んでいたこともあり、45歳ごろ実業界を去り、文人としての道を歩み始めました。
 大阪、京都、名古屋、東京と住居を移し、その間に詩作に一層の磨きをかけました。茶道は宗へん流を極め、絵や造園建築にも精通しました。
 呑山が三島を盛んに訪れたのは、晩年の78歳ごろです。
三島の風土や歴史に心底から魅せられ80歳の昭和8年(1933)から昭和18年(1943)までの10年間滞在しました。当時の三島の素封家
(そほうか)(注)、医者、実業家たちが、
呑山の人間的魅力に惹
(ひ)かれて師事(しじ)しました。漢詩、茶道、書道などを通じて師弟(してい)は深い交流を育みました。
 呑山は三島在住時、漢詩集『三島竹枝』を発行しました。この詩集には三島の伝説や遺跡、人情、風俗が数多く詠
(よ)まれています。
 第2次世界大戦が激しくなった昭和18年(1943)に90歳になった呑山は三島の人たちに惜しまれつつ岡崎市に移り、
2年後の昭和20年(1945)92歳の生涯を閉じました。

(注) 財産家、名望家


三島竹枝
(みしまちくし)

 『三島竹枝』は、呑山が三島に在住していた昭和9年(1934)に発行した漢詩集です。
 
「竹枝」とは中国唐代の詩人 劉
(りゅうしゃく)が最初に
作った七言絶句(4句28字の短い漢詩)のことです。揚子江
(ようすこう)の峡谷地帯を旅したとき、若者たちが歌っていた
竹枝という民謡を聞き、七言絶句に改作したのが始まりです。その地方独特の伝説、人情、風俗、習慣、行事などを素材とした風物詩です。 
 
『三島竹枝』は43首の作品からなり、冒頭富士の白雪を連想しての詩に始まり、言成
(いいなり)、日限(ひぎり)、子安地蔵や、七木七石などの伝説に関する詩、また歴史や名所旧跡に関する作品には、三嶋大社、国分寺、三島暦、龍澤寺に関する詩などがあります。

 このほか自然や景勝、風俗、名産を取り入れた多種多様の詩が掲載され、呑山がいかに三島の風土に深い愛情を持っていたかが分かります。 
 呑山が三島を去るにあたり、「呑山三島吟社」会員によって、昭和18年(1943)に三島竹枝碑(詩塚)が愛染院跡(JR三島駅南側)に建てられました。


出典 『ふるさとの人物呑山・他石』


呑山会(どんざんかい)          

平成8年(1996)に呑山を慕う人たちが集まって「呑山会」を結成しました。以来「杉田呑山の事跡を知る」ことを主目的に、呑山の著書で、三島の人情風俗を詠んだ漢詩集『三島竹枝』を解読する勉強会を開いています。

 呑山が10年間三島に滞在していた間に、当時の三島の約20人が呑山を慕って師事しました。

 しかし時がたつにつれ、『三島竹枝』が三島にとっては貴重な文化遺産でありながら、いつしか埋もれてしまっていました。

 平成12年(2000)現在、講師に漢学者の徳永昌(とくながさかう)先生を迎え、2カ月に1回の勉強会を開いています。会員たちは、呑山翁を知れば知るほどその豊かな人間性に、魅了されています。常連の参加者は約20人で、毎回和気あいあいと進む勉強会は、まさに平成の寺子屋風に展開しています。


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