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楽寿園の文化財

楽寿館(らくじゅかん)
(市指定文化財、建造物)

         小浜池と楽寿館の写真 楽寿館

 楽寿館は、小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王(しんのう)の別邸として建てられた純日本風の高床式数寄屋造りで明治期の建造物です。現在1日2回(10:30〜、13:30〜)公開されているのは当時の建物の一部です。回廊(かいろう)から見える小浜池や雑木林を生かした庭園は、素晴らしい眺めとなっています。

 
主室(しゅしつ)と次の間からなる60畳敷きの大広間「楽寿の間」を中心に、茶室や異なった部屋が、回廊によってつながっています。よく吟味(ぎんみ)された最高の材料と、すぐれた建築技術で、100年以上を経た今日も当時の優雅(ゆうが)さがしのばれます。京風建築によるこの建物は、簡素な中にも格調高く、釘隠(くぎかく)しなど細かなところまで趣向(しゅこう)を凝らしてあります。

各室のふすま、格(ごう)天井、杉板戸などにはたくさんの装飾絵画が描かれています。

市は絵画を含む楽寿館すべてを昭和49年(1974)文化財に指定しました。

 

 

楽寿の間の絵画
(県指定文化財、絵画)

楽寿館の「楽寿の間」には、ふすま、格(ごう)天井、杉板戸などに210面もの装飾絵画が、野口幽谷(ゆうこく)ら明治20年代(1887〜1896)の日本画の第一人者たちによって描かれています。

主室のふすま絵は「千羽千鳥図(せんばちどりのず)」で、たくさんの千鳥がはるかかなたへ飛び立っていく姿が、羽音が聞こえそうな迫力で描かれています。80面の花の天井絵も、白い彩色で力強く大きく描かれ、重々しく威圧感(いあつかん)ある部屋のしつらえとなっています。

主室に続く次の間のふすま絵には「池中鯉魚図(ちちゅうりぎょのず)」が、池の鯉を中心として、その周囲に小浜池の魚や植物が、生き生きと繊細に描かれています。

またこの格天井にも80面の花が描かれていますが、優しく小さな絵で部屋全体がなごやかでゆったりとした趣になっています。

杉板戸にはツル(鶴)やガン(雁)が四季の移ろいの中に、美しく描かれています。

昭和55年(1980)には、装飾絵画が静岡県の文化財に指定されました。

        楽寿館「主室」の写真 楽寿館 「主室

 

梅御殿(うめごてん)装飾画 「杉戸絵(すぎどえ)
(市指定文化財、絵画)

 梅御殿は楽寿館といっしょに建てられた純日本風の建物です。楽寿館は来客の接待の場所で、梅御殿は住居として使われたものです。

 梅御殿の杉戸絵にも明治の日本画壇の画家により、中国や日本の故事が杉の板目を生かしながら彩色美しく、巧みに描かれています。

 平成12年(2000)現在、これらの杉戸絵は三島市民文化会館に収蔵保管されています。

      梅御殿の杉戸絵  梅御殿の杉戸絵



  楽寿園に別邸を建てた
小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王(しんのう)

 弘化3年〜明治36年
 (1846〜1903)
小松の宮彰仁親王の銅像の写真

  伏見宮家の第8子として誕生。3歳で仁孝(にんこう)天皇の養子となり、13歳で京都仁和寺(にんなじ)に入寺、得度(とくど)(注)し学問に励みました。小松とは仁和寺の旧地名です。

 幕末の混乱期となり、若くして俊才(しゅんさい)(優れた才知)の小松宮は、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは征夷大将軍(軍事総裁)として徳川幕府を追討しました。この戦いを歌った「風流トコトンヤレ節」で“宮さん、宮さん…お馬の前でヒラヒラするのは何じゃいな…あれは朝敵(ちょうてき)征伐(せいばつ)せよとの錦の御旗じゃ知らないか”と歌われた宮さんとは小松宮のことです。また22歳で明治新政府の閣僚となりました。その後も、日清戦争などで明治天皇の側近として有栖川宮(ありすがわのみや)とともに軍の要職を歴任しました。

 明治10年(1877)博愛社(後の日本赤十字社)創設に力を尽くし初代総長、後に総裁となりました。赤十字総会がしばしば開かれた東京の上野公園に、小松宮の騎馬像があります。

 一生のほとんどを武人として活躍しましたが、幼少より仁和寺御所と呼ばれた豪華で、風光(ふうこう)明媚(めいび)(景色の美しい)中で、京文化に親しんだ小松宮の好みが楽寿館によく現れています。

      楽寿館「次の間」の写真 楽寿館「次の間」

 

(注) 仏門に入ること

 出典 『三島市誌 増補』p1138、『三島の文化財ガイドマップ』

 

  
  楽寿館の想い出
 

        緒明 (おあきみのる)さん寄稿
           (特定非営利活動法人グラウンドワーク三島理事長)

楽寿館は、小松宮ならびに李王家の元別邸で、明治天皇陛下より京都所の一部を譲り受けたものと聞き及んでおり、現在でも所々にその面影が偲ばれます。

昭和2年(1927)に緒明家の所有となりましたが、当時は宮様の御住居でしたので、専(もっぱ)ら貴賓、来客用としてのみ使用されておりました。 照宮様、孝宮様、順宮様もお見えになり、その頃火鉢が珍しかったのか小さい手形を残されたとのこと、何とか保存したいと思いましたが、灰が崩れてしまったと、祖母の思い出話を聞いたことがあります。

終戦を迎え、進駐軍(しんちゅうぐん)が参り、特に楽寿園にはCIC(民間情報部)が進駐していました。隊長レッド・ベターは佐野家の隆泉苑に住み、「楽寿の間」の事務所に毎日通勤しておりました。

 今思うと戦時中は、空襲時、夜間に照明弾が落とされただけで爆弾は殆(ほとん)ど落ちなかったと思われます。これも進駐予定地として、残されたのかと想像されます。CIC事務所の地図に楽寿園はチョメイ・エステート(有名な邸宅)と記されていました。CICの方々は良く日本を研究し、日本語は分かりましたが事務所内外では全く日本語は使いませんでした。

私共とは家庭的な付き合いで、醤油(しょうゆ)と牛肉の交換でスキヤキ パーティーが時折(クリスマス・隊員の誕生日など)行われ、全員が将校待遇であり極めて紳士的で、それぞれの家庭が良かったと思われます。尚、50数年経った今日でも、二世のチャールス・モリヤマとはX’マス・カードなどの交換を続けております。三島が焦土化(しょうどか)されなかったのも、このへんの理由かと存じます。

現在40歳以上の方々には懐かしい記憶と存じますが、その頃楽寿園には子供たちが、よく流れ出る川沿いに入ってきて、鰻(うなぎ)や魚を取りに来て遊んでいましたが、管理人に脅かされていたことも、多々あったかと思います。でもあの頃の豊富な水は、今更に懐かしい想い出の一つであります。



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