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神社の祭り 

市内の各地域にある大小の神社の祭典を見ると、いくつかの特徴があることに気付きます。

祭典が行われる時期として、かつての農村地帯では春と秋に多く、これは春は豊作を祈願し、秋は感謝することが祭典の目的となっていたからです。一方、町場では、夏に多い流行病(はやりやまい)に備えた、病魔退散(びょうまたいさん)、無病息災(むびょうそくさい)を祈る祭りが行われました。

 また、氏神
(うじがみ)様として崇拝(すいはい)されてきた神社の祭典は、地域の年間行事に組み込まれ、氏子である地域住民の手で行われてきました。祭りの日は数少ない休息日(きゅうそくび)であり、娯楽(ごらく)に興じることができる開放感に満ちた日でもありました。

 そして、各地域では祭りの規模に合わせて最寄
(もより)、組、町の単位で、輪番制(りんばんせい)で実施されてきました。

 このように、以前より住民参加の形で続けられてきた各地域の祭典も、伝統的に引き継がれてきた行事の担い手が少なくなり、止むを得ず縮小したり、比較的人の集まりやすい土、日曜日に祭典日を変更したり、近年は変化が見られます。

 出典 『三島市誌 増補のしおり』 p.936



安久(やすひさ)のお神楽(かぐら)

安久のお神楽 中郷安久の正月行事である「お神楽」は、昔から村の若い衆によって行われてきましたが、戦後一時中止され、伝統行事の存続が危機のときがありました。これを復活して、昔のようなにぎやかな正月を取り戻そうと立ち上がったのが、有志による「保存会」の人たちでした。

 正月2日、「お神楽」の保存会は王子神社境内に集合して、出発式を行ない、まず拝殿で舞初
(まいぞ)めを奉納します。2頭の獅子頭(ししがしら)は保存会の会員が交替でかぶります。1頭は昔から伝えられてきたものを修理したもの、もう1頭は祝儀を貯めて作ったものだそうです。拝殿での奉納が終わるとお神楽は村に出かけて行き、家々に新年のお祝いを届け続けています。お神楽が村を回って頂いた祝儀は、昔の地名を残すための「道標」造りにも当てられています

 出典 『郷土資料館だより第59号』



ドンドン焼き

佐野のドンドン焼き
佐野のドンドン焼き
 サイの神の祭りは1月14日のドンドン焼きですが、かつては田んぼや川原で行っていたものを、住宅が密集してきたため実施が困難となり,取り止める所も多くなっています。

 田んぼの多い佐野地区では、今でも集落ごとに続けられています。御幣
(ごへい)をつけたオンベ竹を立て、各戸から集めた正月飾りを高く積み上げ火を付けます。その火で焼いたダンゴを食べると病気にならないと言われ、子供たちの楽しみとなっています。

 出典 『企画展きたうえ村』



サイの神さんの引き車

サイの神さんの引き車の写真 秋の夕方、中郷安久(やすひさ)西村(にしむら)では「サイの神さん、みゃあらっしゃい。ろうそく1本、みゃあらっしゃい」という掛け声と共に、子供たちがガラガラとサイの神さんの引き車を引いて回ります。引き車に小菊が飾られ、ろうそくの火が灯されます。

 サイの神は村の守り神であり、子供の神さんとして祀られ、三島では戦後まで、1月14日のドンドン焼きの前に、子供たちがサイの神さんを引き車に乗せて村を回りご祝儀を集めたものでした。

 安久西村では古くから、稲刈りが終わった11月14日がサイの神さんのお祭りの日でしたが、現在はその日に近い土曜日に行っています。

 農家の人々は、おにぎり、お赤飯、ぼた餅などをサイの神さんへお供えします。お供えを食べるとカゼをひかないと言われ、引き車を引き終わった子供たちがいただきます。

 出典 『広報みしまう844号 ふるさと探訪



佐野の山神社の「ヤッサ餅」

佐野の山神社のヤッサ餅 北上の人々は、箱根西麓の山に入り飼料や肥料などの草刈りや、ホダ・タキギとりなど生活に必要な山の幸の恩恵(おんけい)を受けてきました。この山の神を祀る神社は各所に点在しており、1月17日が祭日で、古来より弓矢の神事が行われているところもあります。

 北上で特徴のある山の神の祭りは、佐野の最寄(もより)が行う「ヤッサ餅」です。前日の16日の深夜から餅つきを始めます。このとき「ヤッサ、ヤッサ」と掛け声を掛けながら10人ほどのつき手がヒメシャラの木で作った縦杵(たてきね)でつき、一斉に高々と差し上げ、深夜山の神に供えに行く道々「ヤッサノサア」と大声を掛け合いながら村内を歩くなど、大変興味深い行事です。昔は山の神様が「暴れるほど喜ぶ」と言われ茅葺(かやぶ)き屋根の軒下に擦(す)り付けたり、臼(うす)が横倒しになって転がったり、勇壮なものだったということです。

 出典 『企画展きたうえ村』



中郷地域の初午(はつうま)

ちんぴ稲荷の初午
ちんぴ稲荷の初午
 2月最初の午(うま)の日は、初午と呼ばれ、お稲荷さんの祭りを各地で見ることができます。中郷地域には特色のある稲荷神社が多く、それぞれがにぎやかなお祭りです。また各屋敷内にお稲荷さんを祀る家も多く、初午の朝には子供たちが4色の紙を貼り付けて「正一位稲荷大明神(しょういちいいなりだいみょうじん)」と書いた幟(のぼり)を奉納(ほうのう)します。それぞれの場所では「御供(おそなえ)」といってお菓子やミカンを用意し、奉納した子供たちに渡します。幟の数が多いほど喜ばれたものです。

 大場の「珎
(ちん)稲荷(いなり)」には毎年100本以上の幟が奉納され、早朝から昼近くまで参拝の人々が次々訪れにぎわいます。珍しい名称ですが、「珎」は宝珠(ほうじゅ)、「ぴ」は縁結びの意味で、霊験(れいげん)あらたかな神として知られ、8月26日の例祭とともに大きな祭りとなっています。

 梅名の「お蔵場
(おくらば)稲荷(いなり)」は、江戸時代のお蔵場(米の貯蔵場(ちょぞうば))跡にあり、かつて近くの梅名川より船で米を江戸へ運搬しました。梅名の「新田(しんでん)稲荷(いなり)」は、江戸時代、富士山の宝永山が噴火したとき、富士山麓から移り住んだ人たちが、豊かな収穫を願い祀ったものです。

 また、北沢では明治のころ、生まれてくる子供たちが次々と流行病で亡くなりました。しかし、小池家の子供たちだけは屋敷神のお稲荷さんに守られてか、よく育つので、生まれたばかりの子供をわざと小池家の門前に捨て、小池家で育ててもらう風習がありました。小池家にはこうした家々から奉納された幟があり、初午の日に飾られます。


 出典 『郷土資料館だより第65号』


 東海道四○○年エントリー事業として、平成13年(2001)2月11日、江戸時代から市内に現存するお稲荷さんを廻る「新春開運ツアー」が行われました。またFMボイスQで募集した川柳や地口(じぐち)の入選作を掲示した行灯(あんどん)が大通り商店街に設置され参加者を楽しませました。



玉沢(たまざわ)の初午

 2月最初の午の日、経王山(きょうおうざん)妙法華寺の山門に稲荷社(祠(ほこら))が運ばれてきます。普段は別の場所に祀られている社(やしろ)ですが、この日ばかりはお寺の山門のところが初午の祀り場所となるからです。早朝から山門前の社には、村の人々が銘々(めいめい)幟旗(のぼりはた)を持って来て立てます。やがてお坊さんも来て、幟旗で飾り付けされた稲荷社に経をあげ、人々は参拝します。

 社は午前中いっぱいで元通りに片付けられます。供え物には、油揚げ、生魚を左右に1対
(つい)、酒、藁(わら)づと(束ねた藁を舟形にしたもの)に盛った強飯(こわめし)などです。また祭壇(さいだん)前には狐の置物が1対置かれますが、狐は神の使者だと言われています。

 出典 『郷土資料館だより第57号』



町中(まちなか)の稲荷(いなり)

町中の稲荷1 町中の稲荷2
誓願寺(北田町)のお稲荷さん
誓願寺のお稲荷さん

 三島の町中を歩いてみると、至る所と言っても過言ではないほど、「お稲荷さん」と親しく呼ばれている稲荷社の赤い鳥居を目にします。三島の町では、稲荷(注1)が鬼門(きもん)を守り、屋敷と家族の安泰(あんたい)を守る屋敷神(注2)として古くより信じられ、家屋を建て替えても元の位置に必ず鎮座(ちんざ)させたものです。

 また、親といわれた本家筋の家には、必ず稲荷社があり、初午になると分家や近所の人たちが幟
(のぼり)を奉納に来たそうです。今もその風習は続いていますが、何軒かのお宅では、お返しにキツネの面の煎餅(せんべい)やいなり寿司を振舞ってくれます。

 三島市役所の場所は、江戸時代に代官所が置かれ「陣屋
(じんや)」と呼ばれていましたが、北東の角地に通称「福引稲荷」が祀られています。その南隣の誓願寺(せいがんじ)の稲荷(注3)は、「瘍森(かさもり)(笠森)稲荷」といい皮膚病の治癒や商売繁盛を願って、昔、三島に何軒かあった芸者さんの信仰を集めていたことで知られており、芸者さんたちが納めたキツネの置物がたくさん飾られています。
 誓願寺向かいの田福寺(でんぷくじ)跡には開運稲荷がありその他三島の町中には、末広、金勝(きんしょう)、穴守(あなもり)、応神(おうじん)、白玉(しらたま)、愛福(あいふく)など建立者の願望を表わす名前が付いているお稲荷さんがあります。本町の三島信用金庫本店の裏にある下田家の稲荷社は、三嶋大社の宮大工であった世古さんが築造(ちくぞう)したもので、立派な彫り物が施されています。

注1) 三島の稲荷の系統は、伏見(京都)が多く、他に豊川
     (愛知)、
笠間(茨城)、穴守(東京)などがあります。
(注2) 屋敷神は、その地方、地方によって異なり、静岡県でも遠州 
     浜松の方では、地の神さんを祀ります。

(注 3)  現在、庫裏に仮安置しています。
 出典  『海サト山マチの民間信仰』



龍爪(りゅうそう)サンの祭り

龍爪サンのまつり 毎年3月17日の夜、三島の山間部の集落、元山中、小沢、伊豆佐野では龍爪講(こう)のお振舞いが講仲間によって催されています。龍爪講は山で狩猟や鉄砲を撃つ人たちの講でしたが、今では鉄砲を撃つ人はほとんどおらず、先祖から続いている親睦会(しんぼくかい)になっています。

 テッポウカミサマとも言われ、龍爪サンを祀った龍爪神社が建てられ、明治以降盛んになった祭りで、山での災難や鉄砲による災難を逃
(のが)れると信じられてきました。

 昭和20年(1945)の終戦までは、龍爪サンの祭りは盛大に催されていました。幟
(のぼり)を立て、祭典の後、射場で射撃の腕を競った所もあります。このとき配られるお札(ふだ)は、鉄砲の弾が当たらないお札として、三島・駿東の人々が列をなしてもらいに来たそうです。

 出典 『広報みしま,842 郷土資料館シリーズ138』




伊豆佐野の吉田さん

 伊豆佐野では、伝統行事の1つに中駿(ちゅうすん)地区10カ村と一緒になって吉田神社の祭典を持ち回り、11年に1度、当番で行う行事があります。これを「伊豆佐野の吉田さん」と呼びます。今から約150年くらい前の安政年間に、当地に疫病が流行しこれを退散させようと京都の吉田神社の祭神を分けていただき、祈願し退散させたのが始まりと伝えられています。

 前年3月28日に隣村の茶畑区から神輿
(みこし)が送られて、1年間見目(みるめ)神社の社殿に安置します。4月3日に神輿が区内各戸を一巡(いちじゅん)します。途中、各所に休憩所を設け近所の婦人が接待し、酒、ジュースが振舞われ気勢を上げます。沿道では、各戸で新調した奉納吉田神社と書かれた小旗を立て送迎します。4月4日の祭典当日は、加入区の代表と地区関係者を招待して、三嶋大社の神主が神事を行います。直会(なおらい)後、境内で歌謡ショーや演芸など余興が行われにぎわいます。昔は芝居もかかったそうです。

 遠藤二郎さん(佐野) 談


塚原(つかはら)普門庵(ふもんあん)のお観音(かんのん)さん

塚原普門庵のお観音さん 東海道を箱根に登ると尾根上に5つの新田集落があります。1番下の集落が塚原で、街道に沿って細長く伸びる集落の中央より上の方に普門庵があります。毎月17日の講日の「観音さん」の朝、塚原のおばあさん数人が集まり、お堂の内外の掃除をし、その後、鉦(かね)と木魚(もくぎょ)をたたいてお念仏や観音経を唱えます。本尊の聖観音像の左右に不動像、毘沙門像(びしゃもんぞう)が並び、いずれも彩色(さいしき)がよく残った美しい像です。

 賽銭箱
(さいせんばこ)の前には「オビンズルサン」という木像の老人像が座っています。オビンズルサンは体の悪い所を直すご利益があると信じられ、悪い所をさすり祈願します。塚原からお嫁にいった人たちもよくお参りに来ます。普門庵を守るおばあさんたちに感謝して、毎年4月23日地区の有志が集まって一緒にお経を唱え、その後、食事をしてねぎらいます。


 出典 『郷土資料館だより第62号』


中郷(なかざと)のお天王(てんのう)さん

中郷のお天王さん お天王さんは「牛頭(ごず)天王」が祭神とされ、夏場にはやる悪病や害虫を除くと昔から信じられてきました。

 毎年7月6日(平成5年(1993)から第1土曜日)は、大場神社の境内社である八坂神社の祭日で、日が暮れると境内
(けいだい)に人々が大勢集まって来ます。太鼓の音に鼓舞(こぶ)された十数人の若者が裸で神輿(みこし)を担ぎ、掛け声を出しながら境内を練り回ります。麦からや、藁(わら)が燃やされ、炎に照らされて暴れ回る担ぎ手に向かって周囲から水が掛けられます。やがて神輿は神社から大場町内に出て数時間にわたり練り歩く大変勇ましい祭りです。

 中郷のお天王さんは、祠
(ほこら)を縄で担(かつ)ぎ棒にしばりつけた神輿に特徴があります。大場の他、中島、梅名、安久で古くから催されてきましたが、地域ごとに縄の縛り方に違いを持っています。

 
出典 『郷土資料館だより第56号』『なかざと村』


 

賀茂川神社のお天王さん

 賀茂川神社の神楽          三嶋大社の神楽             
賀茂川神社の神楽 三嶋大社の神楽

加茂川町にある賀茂川神社は、昔から祇園山(ぎおんさん)と呼ばれ親しまれてきた神社で、三島の鬼門を守り悪疫を退散させると信じられてきました。

 7月8日、三嶋大社から小さな神輿(みこし)が運び込まれ、神社ではご神体を神輿に遷(うつ)す儀式が行われます。神輿は再び大社に戻りますが、道々で御幣(ごへい)(注)で祓いながら進みます。大社に到着すると舞殿に奉安され、ご神体が漆塗(うるしぬ)りの大きな神輿に遷されます。1週間後の7月15日「渡御祭(とぎょさい)」の朝、この神輿は大社を出発して旧市内の神社を中心に巡行し、悪疫(あくえき)鎮護(ちんご)の祈祷(きとう)を行います。通り道の人々は神輿からお守りを分けてもらい悪病除けとします。

(注) 神祭用具の1つで、白色または金銀・五色の紙を幣串(ほうくし)に挟んだもの
出典 『広報みしま,855 ふるさと探訪』


竹倉のお天王さん


 毎年7月14日(今はその日に近い日曜日)は、竹倉の氏神さんであるお天王さんと呼ばれている八王子神社の祭礼日で、神輿が町内を練り歩きます。大場地区の神輿は、昔は川に入るため白木造りであったのに対し、竹倉の神輿は朱塗(しゅぬ)りで化粧されています。

 お天王さんの祭りは、京都の八坂神社系と名古屋の津島神社系と大きく二分され、三島周辺の農村部では、津島神社系が多くなっています。それは、津島御師
(おし)と称する津島神社の使いの者が、各村の旦方(だんかた)という名主級の家を回ってご神体であるお札を広めたからと言われています。お天王さんの祭りは、夜になって赤々と火を燃やし、神輿も担ぎ手もたくさん水を浴びるのは、夏にはやる疫病(えきびょう)を防ぐ清めのためとのことです。

出典 『にしきだ村』



腰切不動尊(こしきりふどうそん)

腰切不動尊 腰切不動尊は、寛永10年(1633)に御殿川の川底で見つかった石の仏像です。腰から上しか彫られていないので、腰切の名で呼ばれるようになりました。

 
この不動尊は,腰から下の病(やまい)や安産に御利益(ごりやく)があるとされ、長い間多くの人々に信仰されてきました。かつて、縁日はとてもにぎやかでした。特に5月28日は大祭で子供相撲が行われ「田町のお不動さん」として親しまれていました。ところがいつのまにか、不動尊の祠(ほこら)の扉(とびら)が閉ざされ、このお不動さんは忘れ去られようとしていました。

 NPO法人グラウンドワーク三島では、平成11年(1999)に地域の人たちとともに「不動尊」に線香をあげ、お供え物をしてお祭りを40年振りによみがえらせました。そして、平成12年(2000)5月28日、本物の土俵を作って男の子も女の子も参加して昔のように子供相撲がにぎやかに行われました。
 
街角(まちかど)ウォッチング@

  コウラブセ

コウラブセ
 御殿神社東脇を南に少し下り左折し、御殿川の方に下った所。そこの坂道が「コウラブセ」です。長さ10mくらいの道は箱根の石畳と同じ石の道で、亀の甲羅を伏せたように見えるので「コウラブセ」と呼ばれています。石は長い間、たくさんの人々が歩いたのでしょう。つるつるして摩擦の跡が明らかです。コウラブセを下り少し行くと、小さな社があります。そこが腰切不動尊です。



出典 『郷土資料館だより第31号』



ギァアキ婆(ばあ)さん

ギァアキ婆さん 川原ヶ谷の愛宕橋(あたごばし)近くのお堂に、土地の人たちが「ギァアキ婆さん」と呼んで信仰している老婆の姿をした木像が祀られています。ギァアキはガイキで「咳気(がいき)」、風邪や咳で苦しんでいる人たちが昔からお参りに来ました。ギァアキ婆さんの信仰は、裾野市(富沢)、清水町(久米田)などにも見られます。



耳石神社
(みみいしじんじゃ) 

耳の形をした石の写真  幸原にある耳石神社は、耳の病を治してくれる神様がいるところとして知られています。拝殿と本殿の間には大きな耳の形をして石に注連縄(しめなわ)をまいた耳石が鎮座(ちんざ)しています。その近くにはたくさんの人たちが奉納した小さな穴あき石が吊り下がっています。耳の形に似せた石で「耳が良くなりますように」と、願をかけたものです。
 
 出典 『海サト山マチの民間信仰』



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