トップページ > 市の紹介 > 地勢・歴史 > 三島アメニティ大百科 > 目次 > 原始(げんし)・古代(こだい)

原始(げんし)・古代(こだい)

旧石器時代(きゅうせっきじだい)

土杭の写真  土 坑 
 

 三島市で現在、人間の生活の跡を見い出すことができる最古のものは28,000年前の地層から発見された石器です。縄文時代が出現するまでの旧石器時代(約28,000年前〜12,000年前)、人類の足跡(そくせき)は数多くの石器と礫群(れきぐん)(拳大(こぶしだい)の石数10個を熱し、石蒸(いしむし)料理をした跡)や炉跡(ろあと)に残されており、これらから研究者は当時の生活を推測しています。

近年、箱根丘陵部(きゅうりょうぶ)初音ヶ原(はつねがはら)一帯の発掘調査により、約27,000年前と推定される土坑(どこう)(土の穴)が60基発見されました。これは日本で最古のものです。この土坑は深さ約1.4m、口の直径約1.3mで台地に沿って弧状(こじょう)に並んでおり、動物を追い込んで捕獲(ほかく)するための落とし穴と考えられています。

出典   『三島の成り立ちT』p.5

縄文時代(じょうもんじだい)

吊り手土器の写真 吊り手土器(縄文時代中期)

 縄文時代は、約12,000年前から、およそ10,000年の間営まれました。三島市の縄文遺跡の大部分は箱根西麓の尾根にあり、発掘(はっくつ)調査の結果、多くの縄文土器・石器・住居跡が発見されています。

この時代、住居は竪穴(たてあな)式住居が主流で地面を掘り下げ床(ゆか)とし、土を周囲に積み上げその上に屋根をふいたものでした。1つの集落には2〜3軒以上の住居があり、総計20〜25人程度が生活していたと考えられています。また、住居の一部には板状の石を敷き詰めた敷石(しきいし)住居があり、集落の祭祀場(さいしば)と考えられています。

観音洞窟跡 敷石住居跡 観音洞遺跡
敷石住居跡

→ 千枚原遺跡
出典 『三島の成り立ちT』p.6

千枚原遺跡(せんまいばらいせき)(三島市指定史跡)

千枚原遺跡

千枚原遺跡は、静岡県東部を代表する縄文時代の遺跡として明治時代から知られていましたが、昭和23年(1948)の発掘調査で豊富な遺物とともに全国でも数少ない敷石住居跡(しきいしじゅきょあと)を発見し、一躍注目されました。昭和38年(1963)三島市ではこの台地を住宅団地として開発することになり、工事に先がけて発掘調査を行い、縄文時代の敷石住居跡6軒・住居跡7軒・炉跡・弥生時代の溝などを発見、また縄文時代中期の大甕(おおがめ)を中心に各期の遺物が多数出土しました。

この千枚原遺跡は後の弥生時代(やよいじだい)との複合的大規模遺跡で、三島市発祥(はっしょう)の地と言っても言い過ぎではない貴重な遺跡です。現在その一部が公園になっています。

出典 『三島市誌 上巻』p.62、『ふるさと三島』p.4

弥生時代(やよいじだい)  

田下駄の写真 木製品出土状態
田下駄(中央)

 三島市で稲作(いなさく)の遺跡が見られるのは紀元前1世紀ごろからのもので御殿川流域・境川流域の中郷(なかざと)の低地帯からいくつかの水田跡や集落が発見されています。

 特に御殿川中流域にあたる奈良橋向
(ならはしむかい)・西大久保遺跡(にしおおくぼいせき)(現、東本町・日清プラザ)は水田跡・住居跡・祭祀場跡(さいしばあと)がセットで発見され、弥生時代の北伊豆集落の様子が分かる遺跡として注目されています。

 この遺跡が営まれたのは3世紀から4世紀ころで「ムラ」がまとまり「クニ」を形成し、西日本では耶馬台国
(やまたいこく)に女王卑弥呼(ひみこ)が君臨(くんりん)したころとほぼ同時代と考えられています。

 平成4〜5年(1992〜1993)に実施された発掘調査では、弥生式土器、土師器
(はじき)、須恵器(すえき)をはじめ、水田の畔(あぜ)の杭(くい)やはしご、ねずみ返し、鍬(くわ)、田下駄(たげた)などの木製品が発見されました。その他、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、鏡の模造品などの祭祀的な遺物も見つかっています。

出典 『三島の成り立ちT』p.7

古墳(こふん)時代 


 伊豆地方には大型古墳はなく、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)も向山古墳群(むかいやまこふんぐん)(北沢)に1基あるのみです。
三島の古墳の大半は中郷
(なかざと)地域などの水田地帯を見下(みおろ)す箱根山麓の尾根上に造られています。特に平成2年(1990)に発掘(はっくつ)調査された夏梅木(なつめぎ)古墳群(錦が丘団地内)からは8基の古墳が発見されました。

→  向山古墳群、夏梅木第6号墳
出典 『三島の成り立ち』p.8


向山古墳群(むかいやまこふんぐん)

向山古墳群の写真

向山古墳群は平成3年(1991)の市道拡幅工事に伴う発掘(はっくつ)調査により、円墳(えんぷん)11基・前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)1基の計12基が確認されています。向山古墳群の大きな特色は、横穴式(よこあなしき)石室(せきしつ)が造られる以前の古い形式の埋葬(まいそう)施設で、木棺(もっかん)直葬(じきそう)といって、遺体を入れた木棺を、直接古墳の盛土の中に埋めたものであることです。

昭和50年(1975)、向山小学校建設中に発見され、発掘調査された2基の円墳からは、鉄剣・鉄刀・鉄鏃(てつぞく)が出土しました。伊豆地方には向山古墳群が造られた時期に近い古墳群として、伊豆長岡町の丸山古墳群と、韮山町の多田(ただ)古墳群がありますが、伊豆地方の古墳から鉄剣が出土したのは初めてのことです。

古墳の施設や出土遺物から見て、この古墳が造られた時期は5世紀後半から6世紀前半の古墳時代中期後半と考えられています。三島市内では最も古い古墳群で、その規模や出土遺物の内容から田方平野北部を支配していた「クニ」の王(首長)の存在をうかがい知ることができ、また、全国的に定型化した前方後円墳を有していることから、大和国家(やまとこっか)、大和朝廷(やまとちょうてい)との関係を知る上で重要な古墳群であると言えます。

出典 三島市教育委員会説明板

夏梅木(なつめぎ)第6号墳(ふん)

 夏梅木第6号墳の写真
 平成2年(1990)、錦が丘団地造成に伴う発掘調査によって発見された古墳(古代の有力者の墓)の1つで、今から1,400年ほど前の古墳時代の終わりころに造られたものです。直径14mの丸い形をした円墳で、古墳の範囲を示す周溝と呼ばれる幅1.5mの溝が巡っていました。中央には、大きな石を組み上げた横穴式石室(長さ6m、幅1.5m、高さ2m)と呼ばれる部屋があり、最奥部には箱型の石棺(長さ2m、幅0.6m)が設置されていました。

 石室の中か出土品の写真らは、鉄刀や鉄(てつぞく)などの武器をはじめ、騎馬(きば)を示す馬具、勾玉(まがたま)などの装飾品、飲食器など、100点を越える副葬品が出土しました。特に黄金色に輝く飾(かざり)太刀(たち)の出土は、葬られた人の権力の大きさを示すとともに、この太刀がもたらされたと考えられる中央(畿内(きない)政権との密接な関係を示していると言えましょう。

 一部新しい石材を補って同じ位置に古墳を復元し、夏梅木古墳公園として公開しています。

出典 三島市教育委員会公園説明板

 人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)


人面墨書土器1  平成12年(2000)2月、安久の箱根田遺跡(はこねだいせき)(河川跡)で人面墨書土器が数点出土しました。この人面土器は、奈良時代から平安時代に疫病(えきびょう)(伝染病)や災厄(さいやく)といったけがれを払うために、土器に疫神(えきじん)(病気をはやらせる神)の顔を描き川辺で儀式を行い、川に流していたものと考えられています。静岡県東部では、初めての発見例です。河川跡からは平成12年(2000)2月現在、その他の土器2,000点、木製品1,000点などが出土しています
人面墨書土器2
出典 『広報みしま』


律令体制下(りつりょうたいせいか)三島


 大化の改新(たいかのかいしん)645(注1)以来、中国(唐(とう)の国家体制にならい、律令(注2)によって国の制度や機構が定められ運営されることになり、天皇中心の中央集権国家が成立しました。日本という国名も年号も、このときから始まりました。

 
(りつ)は刑法に相当する法令で、(りょう)は行政法、民法、商法その他もろもろの法令を含みます。(みやこ)大和(やまと)、周辺の山城(やましろ)摂津(せっつ)河内(かわち)和泉(いずみ)5カ国を畿内(きない)と定め、これを中心に全国を放射状に東海道、東山道(とうさんどう)北陸道(ほくろくどう)、山陰道、山陽道、南海道、西海道(さいかいどう)の7道に分けました(五畿七道(ごきしちどう)

 三島は始め、東海道の中の駿河国(するがのくに)に属しましたが、天武(てんむ)天皇のとき駿河から分かれて伊豆国(いずのくに)になりました。国の下には、郡(ぐん)(り)(後にごう)が置かれ、それぞれの長は、国司(こくし)郡司(ぐんじ)里長(りちょう)と呼ばれました。8世紀の伊豆国には、田方(たがた)那賀(なか)賀茂(かも)3郡があり、その国府(国司がいる国庁がある所)は三島にあったと思われます。

(注1)飛鳥時代の大化元年(645)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)を中心に中臣(なかとみの)(藤原(ふじわらの))鎌足(かまたり)ら革新的な朝廷豪族が蘇我大臣(そがのおおおみ)を滅ぼして、私有地・私有民の廃止、地方行政権の中央集中、税制の統一など中国(唐)の国家体制にならった国家を目指した改革

(注2)中央集権国家統括のための基本法典
→  国庁、国府の所在諸説
出典 『三島市誌 上巻』p.268、『ふるさと三島』p.10


国府(こくふの所在諸説


 伊豆国(いずのくに)の創建当初の国府はどこにあったかについて諸説があります。例えば

1 大仁町田京にあったのを聖武天皇(724〜749)のころ蝦夷
(えみし)征討のため三島へ移した。

2 平安時代延暦
(えんりゃく)年間(782〜806)に箱根山路開通によって国府、国分寺を共に移した。

3 当初から三島にあった。
などです。

『三島市誌(昭和33年版)』は関係遺跡などを調査発掘の結果、奈良時代の条里
(じょうり)遺跡(いせき)、それ以前の寺院跡、その他を考察して、伊豆国府は当初から三島にあったと考えられると結論づけています。

 ただし、国庁の位置などで、今後も議論、研究が続くものと思われます。

→  古代の大寺院、国庁
出典 『三島市誌 上巻』p.277、『田京国府論(其のニ)』、『ふるさと三島』p.217

国庁(こくちょう)

   国庁跡碑
国庁跡碑の写真

 奈良時代に造(つく)られた国庁は現在の芝本町の辺りで、南は芝本町と本町の境の東西道路、北は楽寿園の南側、東は圓明寺えんみょうじ)、西は源兵衛川の辺りに2町四方(218m四方)の広さをもっていて、築垣(ついがき)で囲まれた役所だったと推定されます。

 現、ツバメタクシー営業所の東を北に入った池田病院の石垣の一角に、軽部慈恩
(かるべじおん)日本大学教授の建てた「国庁跡」と刻(きざ)んだ石碑が残っています。国庁とは国司の行政役所のことです。国司は中央から派遣される朝廷官僚ですので、国庁は今風に言えば中央政府の地方役所ということになります。その国庁の所在地を国府と言いました。この三島の地が伊豆国府であったわけです。
 平安時代の中ごろになって、国分寺・国分尼寺が焼失したため他の寺に移され、国庁もこの両寺のある町の東方の元の長谷町(ちょうやちょう)(現、大社町)に移されたものではないかと言われています。

→  古代の大寺院、伊豆国分寺・国分尼寺
出典 『ふるさと三島』p.10、p.213



古代の大寺院
大興寺(だいこうじ)・山興寺(さんこうじ)・天神原廃寺(てんじんばらはいじ)

 霊峰(れいほう)富士と箱根山の麓(ふもと)にある三島は、湧水(ゆうすい)が至る所から噴出し、「泉のもと直ちに川をなす」といわれ、古くから北伊豆の文教・政治・交通の中心として栄えていました。伊豆国(いずのくに)そのものは小国でしたが、三島はその北端の地にありながら、国府(こくふ)として、また信仰の地として、他の国府に劣らず栄えたものと思われます。

 国府になると、この地に伊豆の総社(そうじゃ)(注1)として三嶋社が建立(こんりゅう)されました。さらに天武(てんむ)・持統(じとう)両天皇の仏教化政策と、百済(くだら)・高句麗(こうくり)(注2)の滅亡による技術者、学者、工人(こうじん)の流入が、全国に寺院建立ブームを巻き起こし、独立間もない伊豆国でも国府に、大興寺(市ヶ原廃寺)、山興寺(塔の森廃寺)、天神原廃寺が建てられました。

 その後、天平(てんぴょう)時代(注3)に、聖武天皇の勅命により国分僧寺(こくぶんそうじ)(現、伊豆国分寺の場所)尼寺(にじ)(場所は不明)が建てられました。当時の寺院は、学問をするところ、今でいう大学のような場所でした。三島は小国なのに、三嶋社と5つの寺院の大きな建物が建ち、国府の偉容を誇ったものと思われます。

 山興寺(塔の森廃寺)、大興寺(市ヶ原廃寺)は、平安時代、それぞれ焼失した国分僧寺・尼寺にあてられています。天神原廃寺については、その位置がはっきりしません。

(注 1)参拝の便宜のため数社の祭神を1カ所にまとめた神社
(注 2)朝鮮半島の国
(注 3)奈良時代後期、平城(奈良)に都があったころから平安(京都)に都が移ったころまで、文化・美術に優れたものが多い。
→  国庁、伊豆国分寺・国分尼寺、法華寺、祐泉寺
出典 『三島市誌 上巻』p.285、『ふるさと三島』p.12


伊豆国分寺(いずこくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)


伊豆国分寺塔跡の写真







 国指定史跡
 伊豆国分寺塔跡

 国分寺は奈良時代に聖武(しょうむ)天皇の勅願(ちょくがん)(注1)によって、国ごとに設置された国立の寺院です。国分寺には僧寺と尼寺の2つがあります。僧寺の正式名称は「金光明(こんこうみょう)四天王(してんのう)護国(ごこく)之寺」、尼寺は「法華滅罪(ほっけめつざい)之寺」といいます。

 三島に国分寺が建立(こんりゅう)された時期ははっきりしませんが、聖武天皇の勅命が出た天平(てんぴょう)13年(741)から宝亀(ほうき)元年(770)くらいの間で、当初の国分寺の位置は発掘調査の結果、泉町の現在の伊豆国分寺から本覚寺(ほんがくじ)の辺りであることが確認されました。現在の伊豆国分寺の本堂裏には8個の塔の礎石が残っていて、国の史跡に指定されています。

 当初の国分尼寺の場所は、南町の東芝テック三島工場の東側辺りと推定されます。国分寺は延喜
(えんぎ)7年(907)以前、国分尼寺は承和(じょうわ)3年(836)に火災により焼失したため、三嶋社の近くの山興寺(塔の森廃寺)が代用国分寺に、大興寺(市ヶ原廃寺)が斉衡(さいこう)2年(855)定額寺(じょうがくじ)(注2)・海印寺別院となり代用国分尼寺になりました。

(注1)    勅命による祈願
(注2)    古代の朝廷で一定数を限って保護した官寺
→   古代の大寺院、国庁、法華寺、祐泉寺
 出典   『三島市誌 上巻』p.325、『ふるさと三島』p.11、189

条里制(じょうりせい)

条里制による区画図

 条里制は、大化の改新から奈良時代にかけて整備されました。国府の一帯は整然と碁盤の目のように東西南北に走る道路で区切られており、国分寺(こくぶんじ)、国庁(こくちょう)他すべての建物はこの条里(1町=109m毎に平行に区切られた碁盤の目状の区画)の中に造られました。

 伊豆国分寺は、伊豆国の条里の方向とは一致せず、むしろ駿河国の条里の方向に近い状態で建立されています。駿河国の条里は境川の西側によく残っています。

 伊豆国(いずのくに)の条里は、現在の三島市新谷(あらや)から南側一帯の境川と御殿川に挟まれた、中郷(ななざと)地区の水田地帯によく残っています。方向が22度ほど西に傾き、5度弱の駿河条里と全く違った方向に作られています。この22度の方向で、現在の大仁町辺りまでの田方平野に施行されました。

 これは大化の改新で税制が定められ、公地公民制(注)に基づいて、平等に土地を与えるために全国に施行されました。男女、年齢、身分によって一定の面積の土地が与えられ定めた税を納入しました。

 新谷以北の国府の地域には、条里による区画はなかったようです。現在の緑町の辺りにある1の乗(のり)から8の乗の直線道路は後の区画整理によるものと考えられます。

(注)すべての土地・人民を国家の所有とし、私有を認めないこと。大化の改新で宣言され、その後の律令国家の理念とされた。

→  伊豆国分寺・国分尼寺、国庁
出典 『三島市誌 上巻』p.389、『ふるさと三島』p.186、『新修 国分寺の研究 第7巻 補遺』p.16
4

目次へもどる 次ページへ 前ページへ 表紙へもどる