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寺院

遠成寺(おんじょうじ)(日蓮宗(にちれんしゅう)・幸原町2丁目)

 遠成寺の写真
 この寺の宗派は日蓮宗で、身延山(みのぶさん)第27世通心院日境上人(つうしんいんにっきょうしょうにん)が、寛永(かんえい)10年(1633)5月伊豆に巡教のとき、境川のほとり(現、幸原町2丁目)に一宇(いちう)(注1)の法華堂(ほっけどう)(注2)を建て、「ここは久遠実成くおんじつじょうの本師釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)のおられるところであり、真心をもって合掌(がっしょう)し、信心に励めば幸せが得られます」とし、寺名を大幸山遠成寺(だいこうざんおんじょうじ)としました。

 寺には伊豆長八
(いずのちょうはち)(入江長八)作と伝わる鏝(こて)絵「天人図」1対が残されています。

(注1)1棟の家、1軒
(注2)法華三昧を修する道場
出典 寺資料、『三島市誌 下巻』p.590、企画展『きたうえ村』


妙法華寺(みょうほっけじ)(日蓮宗(にちれんしゅう)・玉沢)

妙法華寺の写真
 この寺は日蓮宗本山で、日蓮大上人(にちれんだいしょうにん)第1の弟子、大成弁日昭上人(たいじょうべんにっしょうしょうにん)によって、およそ700年前に鎌倉で建てられ、その後、越後(えちご)、伊豆加殿(かどの)村を経て元和7年(1621)、この地に移転され大成されました。その移転に尽力したのが徳川家康側室(そくしつ)で水戸光圀公(みとみつくにこう)の祖母にあたる養珠院(ようじゅいん)お万の方、英勝院(えいしょういん)お勝の方、そして江戸城を築いた太田道灌(おおたどうかん)の子孫の資宗(すけむね)でした。さらに全国末寺(まつじ)80余りの寺や徳川幕府による協力も大きかったようです。

 当時の建物の様子は、総門、仁王門
(におうもん)を経て正面に18間(約33m)四方の大本堂(八日堂)(ようかどう)、大中鐘楼(しょうろう)、五重の塔、経蔵(きょうぞう)、三光堂、奥の院、右側に大客殿、祖師堂(そしどう)、大中書院、大小庫裡(くり)、周囲に24の塔中(たっちゅう)寺院など、およそ240棟(むね)の雄大壮麗な寺の景観を誇ったものですが、惜しいことに170年後、寛政3年(1791)の大火により、わずか数戸の建物を残してほとんど焼失してしまいました。現在の伽藍(がらん)は百数十年前に、第41世日桓上人(にちかんしょうにん)(注1)によって再建されたものです。

 スギやマツの古木に囲まれた境内は、およそ2万坪(6.6ha)あり、重厚な石垣に名勝百間塀
(ひゃっけんべい)を巡らして風格ある昭光門(注2)法殿(ほうでん)(本堂)、祖師堂、大書院、大庫裡、宝物館、さらに駿府(すんぷ)城内にあったお万の方の居間を移築した奥書院などが建ち並んでいます。

 表、中、奥の広壮な3庭園には四季折々の花が絶えず目を楽しませてくれます。また、菩提樹
(ぼだいじゅ)や沙羅双樹(さらそうじゅ)などの聖樹(せいじゅ)もあり、より一層清雅さを増し京都の寺のような優雅さがあると言われています。 

 所蔵品としては、鎌倉時代の「日蓮上人説法図」、「絵曼陀羅」
(えまんだら)、日蓮直筆の「註(ちゅう)法華経十巻」、「撰時抄(せんじしょう五巻」などの国の重要文化財があり、その他にもたくさんの宝物があります。

(注1) 高僧であると同時に、優れた俳人でもあり、一瓢と名のり小林一茶が師事したと言われています。 
(注2) 平成7年(1995)、突風によりサクラの大樹が倒れ、倒壊したため、平成11年(1999)4月に再建されました。
出典   『三島市誌 中巻』p.782、『Welcome to ふじのくに 三島』p.101


本覚寺(ほんがくじ)(日蓮宗(にちれんしゅう)・泉町)

 本覚寺の写真
 応永31年(1424)、伊豆国分寺跡に日出上人(にっしつしょうにん)により建てられた日蓮宗の寺です。日出上人は名僧として名高く、伊豆一円を教化し、後に鎌倉に東身延妙巌山(ひがしみのぶみょうげんさん)本覚寺を建立(こんりゅう)しました。

 第2代日朝上人
(にっちょうしょうにん)は日蓮宗の本山、身延山久遠寺(くおんじ)第11代の法主(ほっす)となりました。

 江戸時代には七堂伽藍
(しちどうがらん)が立ち並び、現在の三島市立公園楽寿園敷地内に七面堂(しちめんどう)(注)を持ち、10余の末寺(まつじ)と檀家(だんか)千数百戸を持つほどの大寺院でした。

 明治23年(1899)、小松宮彰仁親王(
こまつのみやあきひとしんのう)が楽寿園に別邸を建てるとき、寺領を献上しました。

 眼病守護の聖人
(しょうにん)として知られ、「日朝さん」と親しみを込めて呼ばれている日朝上人の祈祷祭(きとうさい)が、毎月24日に日朝堂で行われます。

 境内
(けいだい)に『五畿内志』(ごきないし)の編者、並河五一(なみかわごいち)の墓があります。

→  伊豆国分寺・国分尼寺、並河五一
(注) 日蓮宗の守護神七面天女を祀る
出典 『三島市誌 下巻』p.574、『ふるさと三島』p.220、寺資料

伊豆国分寺 (いずこくぶんじ) (日蓮宗(にちれんしゅう)・泉町)

 伊豆国分寺の写真
 もとの伊豆国分寺は、奈良時代、聖武
(しょうむ)天皇の命により奈良の東大寺を総国分寺として諸国に建てられた公(おおやけ)の寺の1つでした。その時代は凶作が続き、地震などの天災もあり世情が不安定だったため、仏の力を借りて人々の不安を取り除こうと国ごとに国分寺が建てられました。

 大変大きな伽藍
(がらん)だったと伝えられていますが平安初期に焼失し、現在では礎石だけが残っています。昭和34年(1959)に、聖武天皇建立(こんりゅう)国分寺として国の史跡に指定されました。現在残っている8つの礎石は、大伽藍(だいがらん)の七重の塔の跡です。

 同じ場所に建てられている現在の伊豆国分寺の宗派は日蓮宗で、むかし蓮行寺
(れんぎょうじ)と称されていた寺を改名したものです。

→   伊豆国分寺・国分尼寺
出典 『三島市誌 下巻』p.573、『Welcome to ふじのくに 三島』p.91

妙行寺(みょうぎょうじ) (日蓮宗(にちれんしゅう)・日の出町)

 妙行寺の写真
 この寺の本山は、日蓮宗身延山久遠寺
(くおんじ)ですが、玉沢の妙法華寺との縁が深く、貞治(じょうじ) 3年(1364)1月に亡くなった日国(にっこく)聖人の開山によるものです。寺の山門は楽寿園が小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)の別邸であったときの表門を、昭和24年(1949)10月に移転したものです。宝塔山(ほうとうさん)の山号額がかかり、柱に鉄鋲(てつびょう)を打ってあり大変いかめしく風格が感じられます。

 寺の境内は緑も多く良く整備されています。本堂左手、山門寄りの墓地には、名高い漢学者の福井雪水
(せっすい)の墓があります。


出典 『三島市誌 下巻』p.580、『ふるさと三島』p.100

圓明寺(えんみょうじ) (日蓮宗(にちれんしゅう)・芝本町)

 圓明寺の写真
 この寺の宗派は日蓮宗
(にちれんしゅう)で、康永3年(1344)将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)の叔父にあたる日静上人(にちじょうしょうにん)が法華堂(ほっけどう)として建立(こんりゅう)し、文明11年(1479)日澄上人(にっちょうしょうにん)によって開山されました。この寺は明治10年(1878)3月、柿田屋火事で類焼しました。そのため同年、三島にあった樋口本陣の正門を山門として移築しました。

 また、第37代住職日空上人
(にっくうしょうにん)のころ、この寺にいた親犬と5匹の子犬の話は「孝行犬の話」として有名です。




→  孝行犬の話
出典 『三島市誌 下巻』p.575、『Welcome to ふじのくに 三島』p.93

本妙寺 (ほんみょうじ)(日蓮宗(にちれんしゅう)・大社町)

本妙寺の写真
 文安 (ぶんあん)5年(1448)に
日泰(にったい)上人が、その師京都妙満寺本山13世日延(にちえん)上人菩提(ぼだい)のために開いた日蓮宗の寺です。日泰上人は上総(かずさ)七里法華の基を開いた人で、この寺が根本道場となっているそうです。

 寺の本堂の屋根は、他の寺と趣きが違って、軒
(のき)が反り上がるのではなく、真っ直ぐ延びて丸みを帯び、風害に強いそうです。本堂正面を飾る彫刻も立派で、三嶋大社の飾り物を彫った彫物師の流れをくむ者の作と言われています。

出典 『三島市誌 下巻』p.580、『ふるさと三島』p.104



耕月寺(こうげつじ) (曹洞宗(そうとうしゅう)・佐野)

 耕月寺の写真
 三島市佐野の北部、裾野市との境界になる境川のほとりにある耕月寺は、佐野地区唯一の寺です。初めは真言宗の小庵
(しょうあん)でしたが、慶長年間(1596〜1615)に、優天守曇和尚(うてんしゅとんおしょう)が甲賀民部(こうがみんぶ)の宅跡に開山、曹洞宗を唱(とな)えました。裾野市桃園の定輪寺(じょうりんじ)の末寺(まつじ)で、本尊は十一面観世音です。耕月寺は、佐野だけでなく元山中、小沢(こざわ)、萩にも檀家(だんか)をもっており、これらの地域間の交流が伺われます。門を入るとすぐ左手には、地元の人たちが建てた六地蔵が並んでいます。

 佐野にはかつて、長徳寺
(ちょうとくじ)、高鎮寺(こうちんじ)、法泉寺(ほうせんじ)、大行院(だいこういん)もありましたが、天正(てんしょう)18年(1590)、秀吉の小田原城攻めの兵火に遭(あ)い焼失してしまいました。

出典 『三島市誌 上巻』P.609、P.677、『三島市誌 下巻』p.591


常林寺(じょうりんじ)(曹洞宗(そうとうしゅう)・本町)

常林寺の写真
 天正
(てんしょう)元年(1573)開創の曹洞宗(そうとうしゅう)の寺で、開山(かいさん)は麒庵東麟大和尚(きあんとうりんだいおしょう)で、本山は永平寺、総持寺です。法堂(はっとう)には本尊として聖観世音菩薩しょうかんぜおんぼさつ)が祀(まつ)られています。現法堂は、昭和5年(1930)の北伊豆地震の直後に再建立(こんりゅう)され、三門(さんもん)(注)とともに木造の建築物として大変貴重なものです。

 三門を入って右手、白瀧観世音菩薩
(しらたきかんぜおんぼさつ)の祀られている白瀧観音堂は、駿豆両国・横道観音霊場第1番札所(ふだしょ)として深い信仰を集め、毎月18日の縁日には例祭が行われています。

 また、毎年2月の節分に行われる節分大般若会
(だいはんにゃえ)には、豆まきと大祈祷(きとう)が盛大に行われ、参拝者でにぎわいます。

(注) 本来は、大きな中央の門と左右の門と3つ重ねて1門としたもの 禅寺の仏殿前にある門 山門とほぼ同様に使われることもある

→ 白瀧観音
出典 寺資料 『三島市誌 下巻』p.574


法華寺(ほっけじ) (曹洞宗(そうとうしゅう)・東本町1丁目)

 法華寺の写真
 この寺の宗派は曹洞宗で、奈良時代に建てられた大寺院「大興寺」
(だいこうじ)の跡だと言われています。大興寺が代用「国分尼寺」となり、国分尼寺は「法華滅罪之寺」と言われたことから法華寺の名が残りました。

 源頼朝と関係の深い寺で、現在境内に頼朝の腰掛け石、頼朝の衣掛
(きぬか)け松、頼朝の経塚(きょうづか)などが残っています。三島をよく往来した頼朝は源氏の旗挙げ成就(じょうじゅ)をこの寺にも祈願し、写経を奉納したと言われています。現在、経塚跡には地蔵尊が安置されています。

 また、古くから、この寺と三嶋大社との関係は深く、昭和20年(1945)の終戦まで、毎年元旦に、この寺の住職が三嶋大社の神殿に昇り、読経し天下泰平を祈祷(きとう)した、と伝えられています。

→   古代の大寺院
出典 『三島市誌 下巻』p.578、『ふるさと三島』p.127
『Welcome to ふじのくに 三島』p.103、

宗徳院 (そうとくいん)(曹洞宗(そうとうしゅう)・松本)

 宗徳院の写真
 この寺は延喜
(えんぎ)元年(901)ごろ、弘法大師(こうぼうだいし)(空海)(くうかい)が当地に霊夢(れいむ)(注)を感じて、延命地蔵菩薩(えんめいじぞうぼさつ)を本尊とした堂一宇(いちう)を建立したのが始まりです。当時、伊豆88カ所霊場の第18番として巡礼が多く、平成12年(2000)現在も、本尊の横に弘法大師(こうぼうだいし)の木像が安置されています。
 源頼朝が永暦
(えいりゃく)元年(1160)3月、蛭ヶ小島(ひるがこじま)に配流されてから、治承(じしょう)4年(1180)伊豆に挙兵するまで、100日間の祈願を立て、三嶋大社に日参するとともに、この寺の本尊、延命地蔵菩薩を旗挙げの祈願仏として日夜詣(もう)でました。本尊の横に源頼朝の木像、参道に祠(ほこら)があります。

 その後、天正
(てんしょう)(1573〜1592)の初期、甲斐(かい)武田の残党道乗(どうじょう)、道吉(どうきち)の2人が当地に住み、土地開拓に専念していましたが、追手が来ることを知り、当寺の境内で相自刃(あいじじん)しました。墓地入り口に道乗、道吉の墓があります。

 村人たちは2人の菩提
(ぼだい)を弔(とむら)うことと、荒廃(こうはい)する当寺を復興することを、韮山村南條の昌渓院(しょうけいいん)第6世麒庵東麟(きあんとうりん)禅師(ぜんじ)に懇請(こんじょう)し、同禅師が開山(かいさん)となり、寺を曹洞宗(そうとうしゅう)に改め、現在に至っています。

(注) 神仏のお告げがある不思議な夢
出典  寺資料、『三島市誌 下巻』p.588、『ふるさと三島』p.18、


宗閑寺(そうかんじ)(浄土宗(じょうどしゅう)・山中新田)

 宗閑寺の写真
 この寺の宗派は浄土宗で、創建は元和
(げんな)年間(1615〜1623)であろうと推定されています。山中城の副将間宮康俊(まみややすとし)の娘お久が徳川家康に頼んで、山中城三の丸跡に建立(こんりゅう)しました。山中城は、天正18年(1590)3月豊臣秀吉の攻撃により落城しましたが、このときの北条方の副将が間宮康俊でした。

 お久は、この戦いで戦死した間宮一族の霊を弔
(とむら)うとともに、多くの武将を敵、味方なく祀(まつ)り、供養するためにこの寺を創建したと言われています。

 寺の境内には、主将松田康長(まつだやすなが)、副将間宮康俊、信俊、信冬の一族、豊臣方の勇将一柳直末
(ひとつやなぎなおすえ)などの墓があります。

 また、寺の裏側の墓地には、かくれキリシタンの墓と伝えられる墓碑も見られます。
かくれキリシタンの墓と伝えられる墓碑1 かくれキリシタンの墓と伝えられる墓碑2
かくれキリシタンの墓と伝えられる墓碑


出典 『三島市誌 下巻』p.586、『ふるさとのしおり みしま』p.26、『三島市教育委員会 説明文』



願成寺(がんじょうじ)(浄土宗(じょうどしゅう)・川原ヶ谷)

願成寺の写真
 この寺の宗派は浄土宗で、源頼朝が三嶋大社に百日祈願
(ひゃくにちきがん)(注1)をしたときの宿舎となり、祈願成就(じょうじゅ)によって天主君山(てんしゅくんざん)願成就寺(がんじょうじゅじ)の寺号を賜(たまわ)ったと伝えられています。開山(かいさん)(注2)は、口伝(くでん)に清安(せいあん)上人と言われています。

 参道を登り詰めた右側に海上の安全と豊漁を祈願して、浪切
(なみき)り不動尊が祀られていて、境内には樹齢300年以上の大きなクスノキがあります。

 また、寛永年間(1624〜1644)以降、三嶋大社宮司
(ぐうじ)である矢田部家の帰依(きえ)(注3)を受けました。当時は神官の家であっても、死者の供養(くよう)のために菩提寺(ぼだいじ)(注4)を必要としたため、矢田部家は、特に願成寺護持(ごじ)(注5)には力を注ぎました。明治以降は神仏分離政策(注6)によって、矢田部家の葬送儀礼等をり行うことはなくなりました。しかし現在でも矢田部家をはじめ社家(しゃけ)(注7)一族の祖先の供養をしています。


(注1) 100日間、同じ社寺に願いごとがかなう(成就する)よう参詣
(さんけい)(祈(いの)る)すること
(注2) 寺院の創始者、または、宗派の祖
(注3) 神・仏などすぐれた者に服従し、すがること
(注4) 一家が代々帰依して葬式・追善供養などを営む寺
(注5) 守り保つこと
(注6) 慶応4年(1868)3月維新政府が、祭政一致の方針に基づき、神道と仏教の融合調和を廃止にした政策
(注7) 世襲神職
(せしゅうしんしょく)の家筋(いえすじ)
出典  『三島市誌 下巻』p.581
『Welcome to ふじのくに 三島』p.95

長圓寺 (ちょうえんじ)(浄土宗(じょうどしゅう)・芝本町)

長圓寺の写真
 この寺の宗派は浄土宗で、大永
(たいえい)2年(1522)、現在の中央町に建てられたものですが、後に今の芝本町に移ったと言われています。この寺の山門は世古本陣の正門を移築したと言われ、世古家の墓が境内にあります。

出典 『三島市誌 下巻』p.575、『Welcome to ふじのくに 三島』p.99


蓮馨寺(れんけいじ)(浄土宗(じょうどしゅう)・広小路町)

蓮馨寺の写真
 この寺の宗派は浄土宗で、昔、寺の裏に蓮沼池(はすぬまいけ)という大きな池があり、蓮の花の香りのする寺という意味から蓮馨寺と名付けられました。しかし現在この池はありません。

 山門を入ると、すぐ右側に松尾芭蕉
(ばしょう)の墓があり、「いざともに ほむぎくらわん くさまくら」と芭蕉の句が刻まれています。この寺の住職が芭蕉の弟子だったという縁で墓が建てられました。

 芭蕉の墓のすぐ近くには、水子
(みずこ)地蔵尊と子安(こやす)地蔵尊が建てられています。境内の中心には、日限(ひぎり)地蔵尊が安置されています。日限地蔵尊は、日を限って願いごとをすると御利益(ごりやく)があると伝えられています。また、子安地蔵尊は安産、子育ての地蔵として知られています。出産前に穴のあいたひしゃくをお供(そな)えすれば安産になると言われ、出産後に穴のない普通のひしゃくをお供えすると、生まれた子が丈夫に育つと言い伝えられています。

 境内の奥には、聖徳太子を祀ったお堂が、三島の職人組合の人々によって大正11年(1922)に建てられました。聖徳太子は仏教を広め、各種技術を伝えた人たちを育てた人として知られ、職人たちの守り本尊としての信仰も集めています。

出典 『三島市誌 下巻』p.574、『Welcome to ふじのくに 三島』p.109

日限 地蔵(ひぎりじぞう)


 蓮馨寺
(れんけいじ)本堂の本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)の左に聖徳太子作と伝えられ、古くから庶民の信仰を集めていた日限地蔵尊が安置されています。昔は60年ごとにご開帳されていましたが、そのたびに三島宿が火事に見舞われたため、現在は開帳されていない秘仏(ひぶつ)だそうです。

 日を限って願いごとをすると願いごとがかなうといういわれから、日限地蔵尊と言われています。また、この地蔵さんの縁日が8月23日で翌24日がすぐ近くの本覚寺
ほんがくじ)日朝(にっちょう)さんの縁日(えんにち)であることから、地蔵さんの縁日に会った男女がデートの約束をし、次の日の日朝さんの縁日に会ったそうです。そこで別名を約束地蔵と言われています。


→  蓮馨寺、本覚寺
出典 『ふるさと三島』p.167、『三島いまむかしT』p.171

林光寺(りんこうじ) (浄土宗(じょうどしゅう)・加屋町)

林光寺の写真
 この寺の宗派は浄土宗で、開山(かいさん)した故信(こしん)上人は、甲斐(かい)の国の武将、武田信玄の子信景(のぶかげ)(勝頼の異母弟)でした。信景は、母親のたっての願いに応(こた)えて弘治(こうじ)3年(1557)に得度(とくど)(注1)し「故信」と称して、はじめは遠州(えんしゅう)相良(さがら)の林光寺に入りました。

 天正
(てんしょう)2年(1574)三島に小庵(しょうあん)を建てて念仏(ねんぶつ)説法をしていました。翌3年武田勝頼が、三河で織田・徳川の連合軍に敗れ、武田家は退勢の一途を辿(たど)るはめになってしまいました。翌年になって、武田家の家臣たちは再興を願いましたが、故信上人は、仏の教えを諭(さと)し、再興への思いを留まらせました。上人に諭された家臣たちは思い直してそのまま三島に留まり、天正5年(1577)皆で茅町(かやまち)(現、加屋町)に本堂を建立(こんりゅう)し、林光寺と称しました。

 寺は、東海88カ所の第70番の観音霊場札所
(ふだしょ)であり、境内の右側に西国(さいごく)33カ所の観音様の石像が祀(まつ)ってあります。

 境内には開山・故信上人の墓をはじめ歴代上人の墓が並び、武田信玄の孫と伝えられる神沢義発公
(かんざわよしほっこう)の墓があることでも知られています。また、欧州の画壇に異彩を放ち、英国王立美術協会の初外国人会員となった栗原忠二画伯の墓など著名人の墓も多くあります。

 さらに、近郷を巡回し念仏講を広めた唯念上人
(ゆいねんしょうにん)や、徳本行者(とくほんぎょうじゃ)、木喰観正上人(もくじきかんしょうしょうにん)の石碑などもあります。

 寺宝としては、「善導大師
(ぜんどうだいし)・法然上人(ほうねんしょうにん)縁起(えんぎ)」、脇侍菩薩(わきじぼさつ)の蒔絵(まきえ)のある厨子(ずし)に納められた安阿弥(あんあみ)作「阿弥陀如来像」(あみだにょらいぞう)、故信上人直筆の「称名号(しょうみょうごう)掛軸(かけじく)」、法然上人の起請文(きしょうもん)の写書(共に金泥書(きんでいしょ)(注2))、唯念上人直筆の掛軸等が所蔵されています。

(注1) 髪を剃(そ)って仏門(ぶつもん)に入ること
(注2) 金粉をにかわでといたものを使って書かれたもの
出典  『三島市誌 下巻』p.932、『Welcome to ふじのくに三島』p.107、、『林光寺パンフレット』『北豆組の念佛寺』p.1


歓喜寺(かんきじ) (臨済宗(りんざいしゅう)・徳倉)

歓喜寺の写真
 この寺の宗派は臨済宗で、本尊は11面観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を祀(まつ)っています。法周禅師大和尚(ほうしゅうぜんじだいおしょう)が寺廓(てなぐら)(注)に創立し、元禄11年(1698)に現在地に移されました。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めのときに焼かれ、後に僧易甫(えきほ)が再建したと言われています。

 この寺の境内には延命地蔵尊が安置されています。今から140年ほど前、寺に集まっていた人たちが、何かに導かれるように本堂を出て、境内の地蔵堂に向かって歩いていった後、ゴーッと音がして裏山が崩れ始め、大量の土砂で本堂、庫裡(くり)ともに埋められました。幸いにも、地蔵堂に集まった人たちは全員無事で、これはきっと地蔵さんが守ってくれたのだということから、延命地蔵さんと呼ばれるようになったという昔ばなしが伝えられています。

 昔、この寺に伊豆長八
(いずのちょうはち)(入江長八)が滞在して、鏝絵(こてえ)を描いたと伝えられ、彼の作品が数多くあります。

 また、墓地には、信州高遠(たかとう)から石工(いしく)として出稼ぎで徳倉に滞在し、龍澤寺開山の1人である「東嶺和尚(とうれいおしょう)の碑」(長泉町納米里(なめり)にある長泉町指定文化財)をつくったり、龍澤寺の仕事を主としてやっていたと思われる北原数右衛門(きたはらかずえもん)(享年37歳)の墓があります。

(注)  現在の徳倉小の辺り
出典  『三島市誌 下巻』p.590、広報みしま(594号)p.1、『石と生活展』p.27


蔵六寺(ぞうろくじ) (臨済宗・御園(みその

 蔵六寺の写真

 この寺の宗派は臨済宗円覚寺派(りんざいしゅうえんがくじは)で、天文(てんぶん)元年
(1532)に正厳和尚(しょうげんおしょう)により開山されました。
 正厳和尚は、戦国大名後北条氏の家臣、笠原新六郎政尭(まさたか)で、現在の清水町徳倉(とくら)にあった徳倉城の城主でした。新六郎は武田勝頼(かつより)に一時降(くだ)っていましたが、後に出家して名を蔵六坊と改め、この寺を建てました。山号は亀霊山で、亀のごとく、頭、手足、尾をかくす(蔵)意味から名付けられたと考えられています。
 現在、この寺では、毎年の夏休み、冬休みに「子どもざぜん会」を開いています。親子とも参加できて、座禅(ざぜん)、お話、紙芝居などがあり、夏は流しそうめん、冬はお汁粉が準備されています。
 また、境内では、子どもたちがボール遊びなどをして楽しく遊んでいる姿をよく見かけます。

出典 『亀霊山蔵六寺の由来』、『三島市誌 下巻』p.589、

龍澤寺(りゅうたくじ) (臨済宗・沢地(さわじ)

龍澤寺の写真
 臨済宗(注1)妙心寺派(みょうしんじはの寺で、白隠禅師(はくいんぜんじ)により宝暦11年(1761)9月に開山されました。境内には本堂、庫裏(くり)、禅堂、経堂(きょうどう)、鐘楼、不動堂、開山堂等が建っており、このうち経堂及び山門は江戸時代の豪商白木屋の寄進と伝えられています。開山堂内には白隠、東嶺(とうれい)、星定(せいじょう)、玄峰(げんぽう)の4老師像が安置されており、そのうち星定老師像は鏝細工(こてざいく)の名工、伊豆の入江長八の作として知られています。
 龍澤寺住職は代々老師として称えられ、多くの雲水(うんすい)の修行を導くとともに、日本全国から各界名士の来訪を受け、仏法(ぶっぽう)の教えを説いています。特に初期の白隠老師や東嶺老師、明治初期ごろの星定老師、大正、昭和期の玄峰老師は名僧として広く尊敬されており、明治維新のころには山岡鉄舟が星定老師のもとに参禅しました。また、終戦前後には、当時の首相鈴木貫太郎をはじめ、政界の大物が玄峰老師の助言を求めてしばしば来訪しました。戦後はイスラエル、アメリカ、ドイツ、フランスなどからも修行者が訪れています。
 平成12年(2000)現在、中川球童老師のもと約20名の修行僧たちが明け方3時半には起床、夜眠っている間も修行のうちといわれる厳しい修行生活を送っています。また、7の付く日には三島市内、2の付く日には沼津市内を「報恩(ほうおん)」と唱えながら、托鉢(たくはつ)して歩く僧の姿を見かけます。 
 紅葉の季節、毎年11月23日(祝日)の観楓祭(かんぷうさい)には、寺所蔵の掛け軸等の虫干しを兼ねて内部の−般公開が行われます。白隠老師をはじめ、一休、良寛、円山応挙、俵屋宗達、山岡鉄舟などの書や絵が本堂の各部屋にびっしり並んで掛けられるので、それらを見ようとたくさんの人々が訪れます。裏山には野点の席が設けられ、紅葉の木の下で抹茶をいただきながら静かなひとときを楽しむことができます。
 寺では毎月下旬に約1週間、接心(注2)があるため、境内への立ち入りは禁止となります。


(注1) 禅宗の一派。臨済宗と曹洞宗があり12世紀に中国から伝わった。教旨は仏教の真髄は坐禅によって直接体得されるものであるとする。
(注2) 禅宗で一定期間、昼夜を問わず坐禅に専念すること。
出典  『三島市誌 下巻』p.590、p.923、『Welcome to ふじのくに 三島』p.105


「今白隠」といわれた
山本玄峰老師 (やまもとげんぽうろうし)

禅僧
慶応2年〜昭和36年
(1866〜1961)
山本玄峰老師の写真

 三島市沢地にある円通山龍澤寺第九代住持(注1)、山本玄峰老師は、慶応2年(1866)1月和歌山県湯の峰で生まれました。生後まもなく捨てられ、同じ村に住む岡本善蔵に引き取られ養育されました。19歳のとき、眼病にかかり失明を警告され、悩み苦しんだ老師は、仏にすがろうと一念発起し、23歳で、四国遍路はだし参りに出ました。そこで雪蹊寺の太玄和尚に出会い仏門に入りました。老師は太玄和尚を生涯の師と仰ぎ、和尚の下で得度し、号を玄峰と称しました。26歳から雲水の修行に旅立ち、厳しい勉学修業によって、学徳を身につけました。その後、太玄和尚と養子縁組をし、和尚遷化の後、雪蹊寺の住職を継ぎ、寺の復興を図りました。
 
 大正4年(1915)に老師は三島市の龍澤寺に入山し、当時廃寺寸前だった寺を復興させることに力を注ぎました。地域の人々とも親密に交流し、寺の繁栄に大きく貢献しました。叡知に富み、人徳も厚く、加えて豪放磊落(ごうほうらいらく)(注2)な人柄は多くの人々を引き付け、強い影響を与えました。山本玄峰の名声は全国に広まり、老師の導きを受けに政財界の大物たちが、馳せ参じています。中でも、終戦時の総理大臣鈴木貫太郎や吉田茂、池田勇人両総理大臣など、日本の政治の中枢を担う人たちに対し、歯に衣着せぬ意見と助言とで、老師は時代の転換期に大きな役割を果たしました。
 96歳で入寂(注3)した老師は、その一生を禅道の興隆に捧げ、後に「今白隠」、「最後の禅僧」と言われるほどの高僧となりました。

(注1) 寺の長である僧。住職。
(注2) 心が大きく、小さなことにこだわらないこと
(注3) 僧の死のこと。
出典  『三島市誌 増補』p.1212、『三島と戦争』

心経寺(しんきょうじ) (臨済宗・大宮町1丁目)

心経寺の写真
 臨済宗妙心寺派に属し、本尊は聖観世音菩薩、東海88カ所第73番です。以前は法相宗でしたが源頼朝の命令で真言宗に改められ、神鏡寺と呼ばれていました。あるとき、住職が国家の平安無事を祈って三嶋大社の神前で般若心経を唱えていると、不思議なことに心経(般若心経)が空から降りてきたのでこの寺の名を心経寺と改め、その後、応永22年(1415)臨済宗に改宗したと言われています。

出典 『三島市誌 下巻』p.576
『Welcome to ふじのくに 三島』p.99


宝鏡院(ほうきょういん) (臨済宗・川原ヶ谷)

宝鏡院の写真
 この寺の宗派は臨済宗建長寺派(りんざいしゅうけんちょうじは)で、鎌倉建長寺大覚禅師の弟子義翁和尚(ぎおうおしょう)が開山(注)したと伝えられています。開基(注)は足利第二代将軍義詮(よしあきら)と言われています。境内には足利義詮と第八代将軍義政の弟政知(まさとも)が葬られたと伝えられています。
 また、本尊薬師如来像(やくしにょらいぞう)は運慶(うんけいの作と伝えられています。残念ながらこの像は通常、拝観できません。また寺宝の茶釜(左文字の釜)は、足利家から奉納されたと言われています。
 寺の参道入り口に当たる旧東海道の道路両側には、将軍が参拝の折りに馬から降りて鞍を置いたという「鞍掛(くらかけ)の石」があります。また、建長寺の裏門を移したと言い伝えられている山門裏の境内には、三島七石の1つとして数えられている「笠置(かさおき)の石」があります。


→   三島七石
(注) どちらも寺院または宗派の創始寺ですが、開山は僧、開基は経済面を負担する世俗の信者
出典  『宝鏡院畧暦』、『三島市誌 下巻』p.581

祐泉寺(ゆうせんじ) (臨済宗・大社町)


 
 この寺は奈良時代の初めに建立された大寺院で代用国分尼寺となった大興寺(だいこうじ)の伽藍跡(がらんあと)に、その一部を境内として後世建てられたものです。寺伝によると、臨済宗大徳寺派(りんざいしゅうだいとくじは)の寺で梅隠宗香禅師(ばいいんそうこうぜんじ)により、永禄11年(1568)に開山されました。
 本堂正面右側に直径2mにも及ぶ大きな石が、大切に保管されています。この付近を調査発掘した結果白鳳時代(はくほうじだい)(注)に建てられた薬師寺式伽藍配置を持った寺の塔心礎(塔の中心柱の礎石)であることが分かりました。この塔心礎はこの時代の典型的なものであり、大興寺の西の塔心礎と推定され、当時の建築様式を知る上で大変貴重なものです。現在、三島市の指定文化財考古資料となっています。この寺の奥まった墓地の中に北条早雲の第3子、幻庵(げんあん)の子北条綱重の墓がひっそりと苔むしています。

(注) 飛鳥時代と天平時代の中間(7世紀後半から8世紀初頭まで)
→   古代の大寺院
出典 『三島市誌 下巻』p577、『ふるさと三島』p.126、三島市教育委員会説明板 

西福寺(さいふくじ) (時宗(じしゅう)・大宮町1丁目)

西福寺の写真
 時宗の開祖一遍は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えれば極楽往生(ごうくらくおうじょう)できると説いて諸国を遊行(ゆぎょう)し、広く人々から尊敬されました。この寺はその弟子通天(つうてん)によって延慶(えんきょう)2年(1309)に建てられたと言われています。「弘安5年(1282)一遍が三嶋大社を訪れた」と国宝「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」に記されています。いつも−遍には40〜50人の信者が同行していましたが、そのうち7〜8人が同時に往生しこの地に葬られました。後に西福寺が建てられ、現在もその墓があります。
 南北朝時代の南朝の亀山天皇、第7子常盤井恒明親王(ときわいつねあきしんのう)の皇子と伝えられる尊観法親王(そんかんほうしんのう)が、この寺の第6代目の住職となり、元中4年(1387)遊行上人になりました。このため「菊の紋章」が、現在も庫裏の玄関と、親王の御持仏(ごじぶつ)と伝えられる本堂の成就地蔵の台座に飾られています。


出典 『三島市誌 下巻』p.576、『Welcome to ふじのくに 三島』p.97


成就地蔵(じょうじゅじぞう)


 西福寺(さいふくじ)本堂の厨子の中に、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を捧げる1m余の金色に輝く成就地蔵尊が祀られています。
 成就の名の由来は、西福寺第6代目住職の尊観法親王(そんかんほうしんのう)が南朝政権の実現を期し地蔵菩薩(じぞうぼさつ)を持仏(じぶつ)としていて、この親王の悲願の成就が名の起こりと言われています。また、一説には、寺の前を流れる桜川用水の工事、または決壊の修復工事が完成(成就)したことによるとも言われています。

→   西福寺
出典 『ふるさと三島』p.210、『三島いまむかし2』p.116


光安寺(こうあんじ) (時宗(じしゅう)・日の出町)

光安寺の写真
 この寺は、延慶(えんきょう)元年(1308)に一遍(いっぺん)上人の高弟真教(しんぎょう)上人に但阿宥弁和尚(たんあゆうべんおしょう)が帰依(きえ)し、もと真言宗と思われる寺を時宗に改宗し、現在に至っています。本尊の地蔵菩薩は、左手に宝珠(ほうじゅ)を持ち、右手に錫杖(しゃくじょう)をとり、左足を前方にやや外して座しています。この造形は南北朝時代(1336〜1392)ころのものと言われ、時宗寺院で祀る最古に近い地蔵菩薩像であり、市の指定文化財にもなっています。
 明治のころ、「駿河百地蔵尊巡拝」という信心参りが、盛んに行われました。この「駿河百地蔵尊」の最後の札所が、光安寺の鼻取り地蔵尊でした。これを含め三島では次の地蔵尊が百体の仲間入りをしています。
第96番  蓮馨寺(れんけいじ)の日限(ひぎり)地蔵尊(広小路)    
第97番  西福寺(さいふくじ)の成就(じょうしゅ)地蔵尊(大宮町)     
第98番  田福寺(でんぷくじ)の子安(こやす)地蔵尊(谷田)     
第99番  法華寺(ほっけじ)の言成(いいなり)地蔵尊(東本町)
第100番 光安寺の鼻取(はなと)り地蔵尊(日の出町)       
 駿河の国ではないのにこの5つの地蔵尊の仲間入りは、三島の地蔵尊がそれぞれ御利益(ごりやく)も高く、有名であったからと考えられます。
  
→  鼻取り地蔵      
出典 寺提供資料 『三島の昔話』p88、『三島市誌 下巻』p.580、『ふるさと三島』p.85


薬師院(やくしいん) (真言宗(しんごんしゅう)・大社町)

薬師院の写真
 この寺の宗派は真言宗で開山(かいさん)は不祥ですが、明暦(めいれき)年間(1655〜1658)尊誉(そんよ)上人を中興(注1)の祖師(そし)としています。寺伝によると弘法大師(こうぼうだいし)(空海)(774〜835)が,修善寺の独鈷(とっこ)の湯を発見の途中、この薬師院に留(とど)まったと言われ、本堂左手に弘法大師坐像が安置されています。また、その傍に弘法大師が座したと伝えられる「こしかけ石」があります。
 昔、竹林寺小路(ちくりんじこうじ)にあった「竹林寺」という寺が応永年間(1394〜1427)にここに移り、楊林山薬師院と号しました。元は、愛染院(あいぜんいん)の末寺(まつじ)でしたが、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく(注2)によって、本山愛染院が廃寺となったので、これを引き継ぎ、真言宗高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の末寺となりました。また、大正初期にはすぐ西隣にあった観法寺(かんぽうじ)という寺を合併し、現在に至っています。したがって薬師院本尊の薬師如来(やくしにょらい)、観法寺本尊の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、愛染院の護摩本尊不動明王(ごまほんぞんふどうみょうおう)の3体を祀(まつ)っています。

(注1)いったん衰えた事を再び盛んにすること。また、その人
(注2)仏法を廃し、釈尊
(しゃくそん)(おしゃかさま)の教えを棄却すること。 慶応4年(1868)3月神仏分離令が出され、これに伴って神社と仏寺との間に争いが起こり、さらに寺院・仏具・経文
などの破壊運動が起った。
→   愛染院跡
出典  寺資料 『三島市誌 下巻』p.579、『ふるさと三島』p89



成真寺(じょうしんじ) (浄土真宗(じょうどしんしゅう)・大社町)

成真寺の写真
 当寺は北条時政の部下であった平成真(たいらのしげさね)が、時政の死を悲しみ22歳で出家し、高野山に登って真言宗を修め、安貞(あんてい)元年(1227)に富士郡桶野口村に寺を構えたのが初めということです。
 その後、箱根権現を参詣のとき、親鸞聖人(しんらんしょうにん)に会い、浄土真宗に改め、現在地には江戸時代初期に移って来ています。この寺の薬師如来は、眼病をはじめ病を癒(いや)す仏として厚く信仰され、箱根神社に祀ってあったものを廃仏毀釈の際、移したものだそうです。
 境内にある無縁仏塚の中に、根来(ねごろ)同心野村金之丞こと金田某の墓碑があります。根来とは和歌山県にある根来寺の僧兵で、戦国時代には鉄砲射撃術に優れたことから根来衆と恐れられ、江戸時代には甲賀、伊賀、根来同心として知られています。金田は剣道で一家を立て、諸国漫遊中に病気で三島に没しました。

出典 『三島市誌 下巻』p.579、『ふるさと三島』p.101


寺院一覧表



宗派

寺院名

所在地

日蓮宗

遠成寺

松雲寺

法善寺

覚林院

妙法華寺

真立寺

本覚寺

伊豆国分寺

妙行寺

圓明寺

本妙寺

受法寺

妙隆寺

妙泉寺

通猛寺

蓮久寺

幸原

三ッ谷新田

市山新田

玉沢

玉沢

川原ヶ谷

泉町

泉町

日の出町

芝本町

大社町

谷田小山

谷田

谷田夏梅木

竹倉

御園

曹洞宗

耕月寺

宗福寺

長泉寺

松岩寺

医王寺

正眼寺

宝光寺

常林寺

法華寺

宗徳院

佐野

塚原新田

谷田

谷田

竹倉

川原ヶ谷

本町

東本町

松本

浄土宗

誓縁寺

宗閑寺

一柳院

願成寺

長圓寺

蓮馨寺

林光寺

誓願寺

真明院

光明寺

沢地

山中新田

笹原新田

川原ヶ谷

芝本町

広小路町

加屋町

北田町

中島

大場

臨済宗(円覚寺派)

歓喜寺

吉祥寺

周福寺

持珠院

梅龍寺

蔵六寺

開田院

徳倉

平田

鶴喰

安久

梅名

御園

大場

宗派

寺院名

所在地

臨済宗(妙心寺派)

龍澤寺

心経寺

禅叢寺

田種寺

沢地

大宮町

玉川

多呂

臨済宗(建長寺派)

宝鏡院

福聚院

長福寺

川原ヶ谷

北田町

安久

臨済宗(大徳寺派)

祐泉寺

大社町

時宗

西福寺

光安寺

田福寺

大宮町

日の出町

谷田(塚の台)

高野山真言宗

薬師院

泉福寺

大社町

長伏

天台宗

普門院

塚原新田

真宗(大谷派)

成真寺

大社町

浄土真宗(本願寺派)

善教寺

長照寺

加屋町

徳倉

出典 『三島の現況図』



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