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連隊のあったころ

戦争と三島

軍服の写真

 江戸時代、三島は幕府直轄の天領(てんりょう)として三島代官の支配に属していました。宝暦9年(1759)幕政改革に伴い、三島代官所は韮山代官所に併合され、江川代官の支配になりました。三島代官所の跡地には三島陣屋が設置され、民政・警察の事務を取り扱いました。この場所は現在の三島市役所の所です。江川英龍(ひでたつ)(坦庵たんなん)は幕府の常備軍を補うため農兵隊を提唱し、後に三島陣屋にてその訓練が行われました。その名残の「農兵調練場跡」の石碑が建っています。

 幕末になると勤王派
(注1)と佐幕派(注2)の対立があり、東海道筋の三島もかなり混乱しました。慶応4年(1868)には箱根戦争が起こりましたし、代官江川英武(ひでたけ)の桑名(三重県)行きや三嶋大社宮司矢田部盛治の伊吹隊(いぶきたい)編成など、維新時の混乱が見られました。

 明治政府になると、明治6年(1873)国民皆兵
(かいへい)の徴兵制が制定され、三島は東京鎮台(ちんだい)(注3)に属し、満20歳になると徴兵検査を受けました。このころから富国強兵を目的とし、領土拡大のため朝鮮半島の植民地政策が進められました。三島町の出陣兵に対する戦死者の割合を見てみると、日清戦争では約1.5%でしたが、日露戦争では約9%に及んでいたようです。そして第1次世界大戦、満州事変、日中戦争、第2次世界大戦へと政治のファシズム化が進み、戦争が拡大していきました。

 この間、野戦重砲兵連隊
(やせんじゅうほうへいれんたい)が三島に移転してきましたし、軍需品を製造する中島飛行機、電業社、明治ゴム、共立水産などの工場が進出してきました。庶民の生活必需品もだんだん欠乏してきましたが、三島は農村地帯でしたので比較的食糧事情はよかったそうです。

 昭和20年(1945)になると、アメリカ軍による空襲が激しくなって空襲警報が鳴り響くこともあり、市内数カ所で機銃掃射
(きじゅうそうしゃ)、市外の水田に焼夷弾(しょういだん)の落下などがありましたが、大きな空襲は受けずにすみました。

 終戦に際しては、龍澤寺、山本玄峰老師の助言の話が語り継がれています。また三島市内では、20数カ所の戦争関係慰霊碑
(いれいひ)、慰霊社がひっそりと祀(まつ)られています。

→  龍澤寺
(注1)江戸末期、朝廷のために徳川幕府を打倒しようとする人々の派
(注2) 勤王派に反対して、幕府の政策を是認し幕府を助けようとした人々の派
(注3)東京地方を守る軍隊
出典 『三島市誌 中巻』p.580、『ふるさと三島』p.60p.68 、『三島と戦争』

『ふり返る20世紀』

農兵隊(のうへいたい)

北田町の三島市役所に農兵調練場跡の立派な石碑が建っています。

 農兵は、外国船防御を目的とし代官江川英龍(ひでたつ)(坦庵(たんなん))により提唱された制度です。英龍の晩年に下田(しもだ)農兵のみ許可されましたが、実現には至りませんでした。

 その後、江川英武の代になり、韮山支配所農兵が国の治安を目的として許可されました。陣屋
(じんや)を支配所に取り立て(調練場にして)、農民に槍(やり)、剣、砲術の稽古(けいこ)をさせることになりました。三島調練場は下田から移転したものです。

 慶応元年(1865)5月には原と富士川河原調練場で大調練が行われ、上洛途中の将軍徳川家茂
(いえもち)ばかりでなく街道筋の見学者にも感銘を与えたそうです。

 農兵は豪農の次男、三男を中心に構成され、その拠出金により運営されたようです。幕末の悪徒が集団をなしても、韮山農兵の集結を聞くと逃げ散ったそうです。

農兵調練場跡碑                  江川 英龍
農兵訓練場跡の碑 江川英龍のイラスト

→   農兵節
出典 『ふるさと三島』p.61、『韮山町史 第11巻』p.491

江川代官(えがわだいかん)の対応と伊吹隊(いぶきたい)

 
 江戸幕府270年の後、慶応3年(1867)大政奉還(たいせいほうかん)され世の中が騒然としていました。三島宿周辺では、幕臣・幕府恩顧(おんこ)の人々も官軍に恭順(きょうじゅん)の誓詞(せいし)を出し、治安維持の任を命じられていました。

 韮山の代官江川英武
(ひでたけ)は早速桑名(三重県)まで赴(おもむ)き、明治政府に恭順の意を示しました。このため旧領を安堵(あんど)され、東海道の治安を任せられました。後に韮山県(伊豆及び相模、武蔵の一部)が設置されると、その県知事に任命されました。 

 三嶋大社宮司矢田部盛治
(もりはる)も明治政府に忠誠を誓いました。自ら神社関係者で組織した伊吹隊を率いて、駿府その他の警備にあたりました。後に、三嶋大社は官幣大社に列せられました。本殿の屋根に菊の紋が付いているのはこのためです。

出典 『三島市誌 中巻』p.580、p.623、『ふるさと三島』p.68、『三島郷土史論考』p.8

箱根戦争(はこねせんそう)

 幕末の動乱期、鳥羽伏見の戦いの後、薩摩(さつま)、長州を主体とした官軍(新政府軍)が東征してからの三島は一応平静を維持し、新政府方の元旗本松下嘉兵衛(かへい)が警備していました。しかし慶応4年(1868)4月、突然、旧幕府方の下総(しもうさ)(現、千葉県木更津市)鎮西(ちんぜい)藩主林昌之介が約80名の藩兵を率い三島へ進出してきました。

 5月には韮山代官所より野戦砲を2門持ち出し、これを三嶋大社の大鳥居にくくりつけました。三島宿住民の驚きは大変なもので、家財道具をまとめ避難する人、宮町裏へ大穴を掘り道具を隠す人などで大混乱したそうです。松下側は宿内での戦いを避け退去したので、空砲1発だけで騒ぎは治まりました。

 林側は、反旗を翻
(ひるがえ)した小田原藩兵らと一緒に箱根街道一帯を占拠し、意気揚々としていましたが、松下側は急使を持って諸方の官軍に連絡し兵を集めました。援軍を3隊に分け箱根を攻め、江戸からの官軍と共に林側を挟み撃ちにしました。5月末に、林らは網代(あじろ)港から房州(ぼうしゅう)(現、千葉県)館山(たてやま)に逃走したと言われています。

出典 『三島市誌 中巻』p.585、『ふるさと三島』p.68、『三島郷土史論考』p.8


野戦重砲兵連隊(やせんじゅうほうへいれんたい) 

 JR三島駅北、銀杏(いちょう)並木の両側には、現在では大学、高校、中学校、小学校が並んでいます。ここには大正8年(1919)に野戦重砲兵旅団司令部および野戦重砲兵第2連隊が設置され、連隊施設として三島衛戌(えいじゅ)病院が開設されました。翌年には野戦重砲兵第3連隊が設置され、平時は3,000人余が常駐していました。現在でも歩哨舎(ほしょうしゃ)が残っています。また、現在の三島商工会議所の一角には憲兵隊司令部三島分隊が駐在していました。

 東海道線が三島をはずれて御殿場経由で開通したため寂れた三島町は、連隊が来たことで活気を取り戻しました。また、道路も整備され交通事情もよくなったようです。現在の日大通りもこのころは十間道路と呼ばれ、道の両側には桜と銀杏が植えられました。桜の寿命が短いため、現在は銀杏だけが残っています。

 昭和7年(1932)2月、上海事変(しゃんはいじへん)へ一個大隊が出征したのを始めとして、多くの兵士が、ここから中国大陸や東南アジアへ送られていきました。

歩哨舎跡の写真
歩哨舎跡

出典 『三島市誌』p.624、『三島と戦争』p.70、『ふり返る20世紀』p.9、『郷土館だより第29号』、『郷土館だより第30号』

中島飛行機株式会社三島製作所
(なかじまひこうきかぶしきがいしゃみしませいさくしょ)

中島飛行機三島製作所の事務棟の写真
中島飛行機三島製作所の事務棟(国立遺伝学研究所に引き継がれた)

 第1次世界大戦以後、最も効果的な攻撃の1つは軍用機による爆撃でした。大正6年(1917)中島知久平により群馬県太田市に創立された中島飛行機は、急成長をして国家の最重要産業として国営化されました。

 多くの工場の中の1つが三島製作所(谷田、桜ケ丘)であり、昭和17年(1942)着工、翌18年から海軍用機器の生産が、さらに翌年には軍用機の動力銃架
(じゅうか)(機関銃の油圧式台座)の大量生産が始まり、多くの徴用工(ちょうようこう)、動員学徒などが生産に従事しました。

 昭和19年(1944)には空襲に備え、地下工場の建設が始まり、地下壕
(ちかごう)が掘られました。翌年、大部分の機械が地下工場へ設置されたところで終戦となり、結局はここでの操業はされませんでした。

 戦後直ちに中島飛行機は富士産業と名称を変え、平和産業への転換を図っています。現在の国立遺伝学研究所一帯がその跡地です。


出典 『三島と戦争』p.61、『ふり返る20世紀』p.20、
   『三島郷土史論考』p.160



戦争(せんそう)と龍爪(りゅうそう)さん

 第2次世界大戦の長期拡大化により、多くの若者が、赤紙(あかがみ)と呼ばれる臨時召集令状(しょうしゅうれいじょう)で兵士として召集されました。出征(しゅっせい)は国民にとって名誉なこととされ、盛大な送別を受けましたが、残された家族は、無事を願う千人針(注)や、弾(たま)よけを願う龍爪神社(龍爪さん)のお札(ふだ)に思いを込めたと思われます。

 龍爪さんは、本来、山の神で、山に入る人が鉄砲玉にあたらないように祈り、祀
(まつ)ったものと言われています。それが戦争で弾(たま)があたらないように願うことにつながりました。

 三島の小沢
(こざわ)、元山中、伊豆佐野の龍爪さんの3月17日の祭りには、沼津、御殿場方面からもお札をもらいに来た人で賑わいました。戦後、無事帰郷した人、無言の帰郷の人など悲喜こもごもですが、龍爪さんは山の神としてひっそり残っています。
千人針の写真
千人針
(注) 千人針は、晒(さらし)の布に赤い糸で1人1針ずつ縫ってもらい、千個の縫い玉が完成したものが一般的でした。兵士はこれを常に腰に巻いて戦場に行ったと言われています。虎は「千里走って、千里帰る」といい、武運長久を願う格好のモチーフとされました。

龍爪神札
   龍爪神札

出典 『三島と戦争』p.18、p.31  



終戦秘話
龍澤寺山本玄峰老師(りゅうたくじやまもとげんぽうろうし)の助言

 三島市沢地にある龍澤寺は、白隠禅師(はくいんぜんじ)をはじめ数々の高僧を生み出した名刹(めいさつ)として知られています。山本玄峰老師もその1人で、三島の人々に慕われたばかりでなく、政財界の人々も意見を伺いに来ていました。

 玄峰老師は、第2次世界大戦の終戦直前に鈴木貫太郎首相との書簡
(しょかん)の中で、「相撲で言えば日本は大関である。大関は大関らしく負けなきゃいかん」「忍び難きを忍べ」と諭(さと)したそうです。結局日本はポツダム宣言を受諾し、天皇の終戦の詔勅(しょうちょく)(注)のお言葉の中に、そのときの助言が反映されたと言われています。

 また、鈴木貫太郎首相に老師を会わせた四元義隆
(よつもとよしたか)さんによると、老師は鈴木貫太郎首相に「こんな馬鹿な戦争はもう、すぐやめないかん。負けて勝つということもある」と真っ先に言われたそうです。

(注) 天皇が意見を表示する文書
→  龍澤寺
出典 『三島と戦争』p.78、『ふり返る20世紀』p.21


戦争関係慰霊碑(いれいひ)、慰霊社(いれいしゃ)


 
昭和20年(1945)8月15日、終戦の詔勅(しょうちょく)をもって、多くの犠牲者を出した第2次世界大戦は終結しました。

 三島から召集され、満州・シベリアの凍土
(とうど)、東南アジアの密林、南方の島々、海上で戦死あるいは病死した人は、三島市(当時)で1,220人、中郷村で262人にものぼりました。

 第2次世界大戦前から昭和30年(1955)ごろまでに戦争犠牲者の霊を慰(なぐさ)めるために、市内各地に慰霊碑や慰霊社が建てられました。これは旧村ごと、集落単位、寺が主体となって建立されたものです。中には北上地区の忠魂碑
(ちゅうこんひ)のように、終戦直後占領軍の破壊を恐れて土中に埋められたものもありました。

 また、出征馬
(しゅっせいば)慰霊碑もあり、当時の農村の運搬や農耕に欠くことのできない馬が家族同様に大切に扱われていたことを物語っています。

 毎年慰霊祭が催され、犠牲者の霊を慰めると共に平和への誓いを新たにしています。

出典 『三島と戦争』p.36


忠魂碑の写真
忠魂碑

私の宝物(たからもの)

泉町 塚田冷子さん談

 戦争が激しくなってからは、空襲(くうしゅう)があるので学校の登下校を早足でするようになりました。あれは雪の日でしたが、1人で登校中に、突然米軍機の黒い機影が表れ、バリバリバリッと激しい機銃(きじゅう)掃射(そうしゃ)に遭(あ)い、逃げるのが精一杯(せいいっぱい)で、とても恐ろしい思いをしました。

 戦争といえば今でも大切にしている物があるんですよ。多分復員してきた人から貰(もら)ったのだと思いますが、落下傘(らっかさん)の布地で作った長じゅばんです。祖母が丸い落下傘を上手に剥(は)ぎ合わせて反物(たんもの)にし、牡丹色(ぼたんいろ)の絞り染めにしてくれたんですよ。絹でさらさらと軽くてね、今でも私の大切な宝物になっています。

幼い頃の塚田さんの写真
幼いころの塚田さん

出典 『みしま梅花藻の里』P.84


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