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その他の信仰

白瀧観音(しらたきかんのん)

 常林寺(じょうりんじ)の三門(さんもん)(注1)前に、横道(よこどう)1番白瀧(しらたき)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の標石(ひょうせき)が建っています。三門を入って右の白瀧観音堂の2階奥の間に、厨子(ずし)に納(おさ)められた白瀧(しらたき)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が安置されています。座高50cmほどの精緻(せいち)な木造の千手観音像(せんじゅかんのんぞう)で、もとは、今の白滝公園になっている地に白瀧寺(しらたきじ)という尼寺(あまでら)があり、その本尊でしたが、明治初年(1868)に廃寺となっていたのを憂え、当時の常林時住職が堂宇(どうう)(注2)を建立(こんりゅう)し、厚く祀(まつ)ったと記されています。

(注1)本来は、大きな中央の門と左右の門と3っ重ねて1門
としたもの。禅寺の仏殿前にある門。山門とほぼ同様に使われることもある
(注2)本来は堂ののき、お堂、殿堂
→   常林寺
出典  寺資料



木町観音堂(きまちかんのんどう)

 このお堂は、正式名を福聚山茲雲院(ふくじゅさんじうんいん)といい救世観音像が祀(まつ)られています。元々は小田原北条氏の守(まもり)本尊として伝えられ、相模(さがみ)(現、神奈川県)の早川に同名の寺を建立(こんりゅう)し安置していました。
 その後、寺は奥伊豆の横川
(よこがわ)に移りましたが文禄(ぶんろく)元年(1592)に僧が亡くなり、北条家の家臣であった飯田庄内が尊像(そんぞう)を背負って三島に移り、ここ木町に庵(いおり)を建て出家(しゅっけ)し祀ったのが、この観音堂です。そこで三島の人々は木町観音堂と言って親しんできました。

 境内に入ると右側に西国(さいごく) 33カ所観音像が祀られています。弘法大師(こうぼうだいし)西国33カ所巡礼が有名ですが、そこに行けない人はここで済ますことができるということで祀られました。

また、左側には正徳
(しょうとく)2年(1712)に造られた言成地蔵尊(いいなりじぞうそん)(石仏)が祀られています。これは言成地蔵の話の中で斬(き)られた小菊の母親がこの木町の出身で、母親の悲しみがあまりにも深いことから、その悲しみと悔しさを、少しでも和(やわ)らげたいと念じて町の人たちが建てたものと言われています。

出典 『ふるさと三島』p.176、『観音さん由来記』

馬頭観音(ばとうかんのん)

馬頭観音の写真
 観音信仰は、民間信仰の中で最も広範囲に広まりました。世に生きるものすべての願いに応じて、その功徳(くどく)はあらゆる人々に及ぶと信じられた、極めて恵みの強い仏が観音菩薩(かんのんぼさつ)でした。

その観音信仰の中で、特に農村で信仰されたのは馬頭観音でした。農耕生活に欠くことのできない大切な労働力であった牛馬の守り神として、また農耕一般の守り神としても信仰されました。

また江戸時代三島宿の伝馬役は、箱根の険を控え大変な負担で、どんな立派な馬でも2年使えば廃馬になるほどの重労働でした。この貴重な働き手であった廃馬の霊を慰めるためと、伝馬の安全を祈って、馬頭観音が祀られました。

馬頭  馬頭観音は、いろいろな場所にありますが、栄町や賀茂川神社の北側の新幹線の土手下などで見ることができます。

出典 『三島市誌 増補 資料T』p.922『ふるさと三島』p.229

 

庚申堂(こうしんどう)・庚申塔(こうしんとう)

庚申塔の写真
 旧暦法の干支の組み合わせによる日数計算では、60日ごとに庚申(かのえさる)の日がめぐっきます。この夜には三尸(さんし)という虫が睡眠中に身体から抜け出て、天帝(宇宙を支配する神)にその者の罪過を報告するので、生命を奪われるという道教(どうきょう)(注)の説に従って、庚申の夜は眠らずに身を慎んでいなければならないと信じられていました。

こうして夜を徹して語りあかす風習が広まり、庚申講(こう)が組織され供養塔(くようとう)が三島市にも各地に数多く残っています。

徳倉では庚申堂が造られ、「庚申の夜」とか「老人講」といって老人たちが庚申堂に集まって、一晩中鐘を叩いて悪霊払いをして無病息災を祈願するとか、また川原ヶ谷(かわはらがや)、新谷(あらや)、市(いち)の山(やま)にも庚申堂があり、小祠(こほこら)が安置されており、それぞれ供養をしたり、講(こう)を開いています。 

(注) 中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。
出典 『三島市誌 増補 資料編T』p.913、『三島市誌 増補』p.904

道祖神(どうそじん)

道祖神の写真1 道祖神の写真2

道祖神は、別名サイの神(塞(さい)の神)ともいい、もとは村境などに立って疫神(えきじん)(注1)、悪霊(あくりょう)(注2)の集落への侵入を防ぐ神でした。やがて村境や辻に祀(まつ)られるところから、行路(こうろ)を守る(旅の安全を司(つかさど)る)道神(どうしん)の信仰が入ったり、猿田彦(さるたひこ)(注3)や地蔵尊の信仰なども加わって、多様な性格を持つようになりました。

 また、道祖神が祀られている村境や辻や往来は、昔から子供たちのよき遊び場であり、同じように村境や辻に祀られた地蔵尊とともに、子供たちの守り神としての性格も持つようになりました。ドンドン焼きの火の中に道祖神を投げ入れて、厄払いをしたという話も残っています。三島市内には、路傍(ろぼう)や神社仏閣の境内などで多く(80余カ所)見ることができます。

(注1) 疫病を流行(はや)らせるという悪い神
(注2) たたりをする「もののけ」など
(注3) 『古事記』や『日本書紀』に出てくる神で、分かれ道の神とも言われる
→    サイの神さんの引き車、ドンドン焼き
出典  『三島市誌 増補 資料編T』p.906


徳本(とくほん)、木食観正(もくじきかんしょう)、唯念(ゆいねん)の碑(ひ) 

 近世の農村には、多種多様な民間宗教者が訪れて布教活動を行っていました。

 当時の農村は度重なる自然災害に苦しめられ、生活に追われ貧困や病気などに悩まされることが多くありました。村に来た民間宗教者の説く仏法に集まり、 阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いを信じて後生(ごしょう)(注1)の安楽を祈願したり、家内安全や五穀豊穣(ごこくほうじょう)(注2)など、さまざまな現世利益(げんせりやく)(注3)の恩恵を得ようと加持祈祷(かじきとう)(注4)に望みを託しました。

 そうした行者(ぎょうじゃ)(注5)の活動の跡として、各行者独自の筆跡の六字名号碑(ろくじみょうごうひ)(注6)が供養塔として、残されています。

(注1)死後ふたたび生れかわること
(注2)米や麦などが豊かにみのること
(注3)現世において神仏から受ける利益
(注4)仏の加護を求めて祈ること
(注5)仏道を修行する人
 (注6)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の碑

徳本行者(とくほんぎょうじゃ)の六字名号碑(ろくじみようごうひ)

徳本行者の六字名号碑の写真
徳本行者の六字名号碑(中の医王寺)

 徳本行者は天明4年(1784)27歳で出家し、徳本流の念仏(注1)で各地を布教して歩き「南無阿弥陀仏」を唱えれば必ず極楽往生(ごくらくおうじょう)(注2)できると説いて庶民の信望を集め、念仏行者の名を高めていきました。 

 文化12年(1815)相模
(さがみ)(現、神奈川県)、伊豆の地に教化念仏行に歩いていて、三島市内の寺院でも徳本行者独特の筆跡による六字名号碑を見ることができます。




(注1) 大きな木魚(もくぎょ)と伏(ふ)せ鉦(がね)を乱調に叩いて、信者とともに 念仏を唱(とな)える
(注2) 安らかに死ぬこと



木食観正碑(もくじきかんしょうひ)

木食観正碑の写真
木食観正碑(JR三島駅北口)


 木食観正は天明4年(1784)30歳で得度(注)し、木食遊行僧(ゆぎょうそう)として修行に励みました。木食とは米穀(べいこく)を断ち木の実を食べて修行することで、そのような僧を木食上人(しょうにん)と呼びます。 

 木食観正は加持祈祷の行をもって、雨乞(あまご)い、火伏(ひぶ)せ、病気平癒(びょうきへいゆ)、大漁祈願(たいりょうきがん)などの、庶民の現世利益の要求に応える精力的な活動をして、多くの信者を集めました。

 木食観正が三島に滞在したのは、文政2年(1819)で、三島市でも自然石の木食観正碑を見ることができます。



(注)剃髪(ていはつ)して仏門に入ること

唯念行者(ゆいねんぎょうじゃ)の六字名号碑(ろくじみょうごうひ)

唯念行者の六字名号碑の写真

 唯念行者は、文化2年(1805)17歳で仏門に入り、91歳の生涯の後半生40年間という長期間にわたり、駿河、伊豆、相模、という限られた地域で集中的に布教活動をして、農民によく支持されてきました。

 唯念行者は、現世利益を祈願する農民のために加持祈祷の行を行い、火災、盗難、流行病、災害などの難儀も救済しようとしました。現在伊豆半島には約1,000基の唯念碑があると言われていて、唯念行者の優れた宗教的指導力を想像することができます。

 三島市内にも、唯念行者の特異な書体の六字名号碑を数多く見ることができます。


出典 『三島市誌 増補資料編1』P.926


巡礼(じゅんれい)

西国(さいごく)三十三観音霊場(かんのんれいじょう)巡り、四国八十八カ所霊場巡り(四国遍路)、坂東(ばんどう)(関東)、秩父(ちちぶ)(埼玉県西部)の三十三観音霊場巡りあるいは佐渡島(さどがしま)の八十八カ所霊場めぐりが有名です。しかし、いずれの霊場も三島からは遠く、一部の豪農しか行くことはできませんでした。

地方にいて巡礼に行けない人のために、寺の境内に信者縁(ゆか)りの本尊仏を刻んで、前述の霊場を設け、参拝の便宜を画ることも行われていますが、三島近郊にも、江戸時代初期に成立した「駿河・伊豆両国横道(よこどう)」(駿豆両国横道)という巡礼路がありました。観世音菩薩は33の姿に変わり衆生(しゅじょう)(注)を救うという観音信仰に基づくもので、三島市の常林寺(本町)を起点として清水市の霊山寺までの33霊場を回ります。主として北伊豆・東駿豆の女性たちが、働きづめの生活から離れ、一生に一度の旅として巡礼に出たようです。この巡礼は、昭和30年代以降、生活の近代化とともに見られなくなっていきました。

駿豆両国横道のほかに三島市を含む近郊の巡礼路は、伊豆中道(なかどう)三十三観音霊場、弘法大師八十八カ所霊場、百地蔵尊霊場などがあります。

(注) 生き物すべて
→   常林寺
出典 『三島市誌 増補』p.908、『庶民の小さな旅 横道巡礼』

キリスト教の歴史

三島カトリック教会の写真
   三島カトリック教会
 三島におけるキリスト教の歴史は、約380年の昔にさかのぼります。元和
(げんな)6年(1620)のイエズス会(注1)年記(ロ−マカトリック教会)によると、三島にはすでに30名のキリスト教信者がおり、当時伊豆教会(三島)は、まだ幕府からの圧迫もなく自由で、洗礼を望む者も多くいたようです。

 しかし、寛永10年(1633)キリシタン大迫害によって、神父は殉教
(注2)をとげます。幕府の弾圧もますます厳しくなったため、信徒は隠れキリシタンとなり、教会は姿を消してしまいました。樋口本陣の切支丹灯籠(きりしたんどうろう)や宋閑寺(そうかんじ)にあるクルス模様墓碑など、その跡がうかがえます。 

 三島において、再びロ−マカトリック教会が活動し始めたのは明治27年(1894)であり、現在の三島カトリック教会は昭和28年(1953)になって創立されました。

旧教に対し、新教(プロテスタント教会)は、キリスト教解禁(明治4年(1871))の翌年、横浜にわが国最初の新教教会が設立され、明治8年(1875)、ジェームズ・バラ博士によって三島に伝えられました。解禁から間もないこの年,三嶋大社前での路傍説教(ろぼうせっきょう)ではおびただしい群衆が集まり、大混乱となりました。バラ博士は明治16年(1883)に三島教会を設立し、旧家の小出・花島両家が入信。キリスト教が一般に受け入れられるようになりました。花島家の花島兵右衛門は、明治21年(1888)キリスト教主義のバラ女学校を設立し、女子教育の普及に努めました。

戦時中わが国の新教教会では、大同団結しようとの運動が起こり、日本基督教団と称するようになりました。中には政府から強い圧力を受けた教会もありましたが、昭和20年(1945)終戦と共に、自由な伝道活動が再開されました。



(注1) キリスト旧教中のローマカトリック教会の一派

(注2) 自己の信仰する宗教のためにその身命を犠牲にすること
→   本陣、花島兵右衛門、バラ女学校、宋閑寺、小出正吾
出典  『三島市誌 下巻』p.591『ふるさとの人物 花島兵右衛門』


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