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三嶋大社周辺

三嶋大社

古くから現在地に「三嶋神社(三嶋明神)」として、大山祇命(おおやまづみのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)とが(まつ)られています。養老4年(720)に編纂(へんさん)された「日本書紀」の天武天皇13年に三嶋神の記録があります。

 源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆に流されていたとき、源氏(げんじ)の再興を願って祈願に通い、治承(じしょう)4年(1180)、旗挙げを果たしました。鎌倉幕府の将軍になってからも祭事の復興、社殿の造営を行うなど厚く信仰し、鎌倉時代を通じて幕府崇敬(すうけい)の神社となりました。後代の将軍や武家たちも所領、刀などを寄進しました。

 幕末には、タウンゼント・ハリスが下田の領事館から江戸に行く途中ここを訪れて、3両2分を奉納したという記録が残っています。

 
明治4年(1871)に官幣大社(かんぺいたいしゃ)(注)となりました。全国に三嶋神社という名前の神社は多いのですが、官幣大社はここだけです。今は「三嶋大社」と称しています。

 境内の面積は1万5千坪(約500a)で、社殿
(しゃでん)・建造物は、うっそうとした森に囲まれています。また、季節により梅、椿、桜などが咲きます。

 三嶋大社は日本の名社の1つに挙げられ、新年の初詣での人出は約46万人で、毎年静岡県一です。

(注)社格の1つで、大社、中社、小社、別格官幣社の別があります。明治以後は宮内省から幣帛(へいはく)料を供進した神社をいいます。第2次大戦後この制度は廃止されました。


 祭神と例祭

 大山祇命は山林農産の守護神として農家から崇(あが)められ、事代主命は俗に恵比須様と呼ばれて、福徳の神として商工業、漁業者に親しまれています。

 例祭は8月16日で、15日は宵祭
(よいまつり)17日は後祭(あとまつり)と呼ばれ大変な賑わいとなります。当番町による山車(だし)に若い衆が乗り、三島囃子(ばやし)のしゃぎりを打ち鳴らして、鳥居前や主な町筋を練り歩きます。16日には頼朝の旗挙げの様子を再現した頼朝行列が出ます。夜には境内で手筒(てづつ)花火神事が行われます。 

祭典

1月 7 日 田祭(たまつり)

「お田打(たう)ち」と呼ばれ親しまれてきた特殊神事で、県の無形民俗文化財になっています。新春の神事として平安・鎌倉時代から毎年1月7日に舞殿で行われています。

1月17日 奉射祭(ほうしゃさい)

33間(約60m)先の大的を射て邪気を払う祭で、やはり特殊神事です。


2月 3 日 節分祭

追儺(ついな)とも言います。「鬼は外、福は内」と舞殿で豆まきをして、邪気をはらいます。

2月17日 祈年祭(きねんさい)

五穀豊穣
(ごこくほうじょう)祈願の祭り。

8月15日 宵祭(よいまつり)

3日間にわたる例祭のはじまりです。


8月16日 例祭

神官によって各種神事が行なわれます。夜は手筒花火が奉納されます。


8月17日 後鎮祭

流鏑馬神事
(やぶさめしんじ)が行われます。 

9月 中旬 木犀(もくせい)のタ(ゆうべ)

境内の金木犀の満開時に、伝統的な雅楽
(ががく)や舞楽(ぶがく)、能楽(のうがく)、箏曲(そうきょく)などが奉納されます。昭和33年(1958)の狩野川台風で暗くなった伊豆のムードを明るくしようと、翌年から始まりました。

11月15日 七五三祝祭

7歳と3歳の女児、5歳と3歳の男児の成長を神に感謝するこの日は、正装した子供たちの参拝で賑わいます。


11月20日 恵比須講(えびすこう)

市内の商店が、境内に出店して売出しをするため、大賑わいになります。


11月23日 新嘗祭(にいなめさい)

新穀
(しんこく)を神に捧げ豊作を感謝する行事。(現在は勤労感謝の日)

12月31日 除夜祭

深夜から、新年の幸運を願う人々が参詣に繰り出して混み合います。

 

1 大鳥居
三嶋大社大鳥居の写真
 瀬戸内海の小豆島から切り出した御影石(みかげいし)で、文久(ぶんきゅう)3年(1863)に建てられました。 



2  たたり石

たたり石の写真 昔は東海道と下田街道の真ん中にあり、交通整理の役目を果たした石です。通常、「たたり」はよくない意味に使われますが、この場合は機織(はたおり)の縦糸が絡(から)まいようにする道具のことで、交通を整理するという意味です。しかし、人の往来が多くなったため、この石を取り除こうとすると災いが起きたといわれ、それから悪い意味の「たたり石」とも呼ばれるようになりました。


3 安達藤九郎(あだちとうくろう)警護の跡
   安達藤九郎警護の跡

 治承(じしょう)4年(1180)源頼朝が源氏再興のために百日祈願をしたとき、供(とも)の安達藤九郎は、自分の身分を卑下(ひげ)して社頭(社殿の付近)には進まず、ここで警護していたと伝えられています。

 現在は、赤松と黒松が1本の木に生えている縁起の良い「相生(あいおい)の松」が植えられています。




4 牧水(ぼくすい)歌碑(かひ)
牧水の歌碑
 
大正10年(1921)大社の祭の夜、若山牧水が隣町の沼津から詠(よ)んだ
「のずえなる 
 三島のまちのあげはなび 
  月夜の空に 消えて散るなり」
の歌碑です。





5 神池(しんち) 
神池の写真
 心という字の形をした心字池で、参道を挟(はさ)んで左右に分かれています。鎌倉時代に頼朝がこの池で「放生会(ほうじょうえ)(注)を行いました。

 (注)  陰暦8月15日にとらえていた生き物を放してや行事







6 厳島(いつくしま)神社

厳島神社の写真

神池の中には頼朝の妻、北条政子が信仰したという厳島神社があります。天長9年(832)に池の水が涸(か)れ、雨乞いをしたところ、たちまち大雨が降ったと古い書物にあり、それ以来三嶋大社は雨乞いの神様、水の神様、農業の神様として信仰が高まりました。箱根越えの旅人が、好天を願ってお参りすることもあったようです。




 7 大楠(おおくす)
大楠の写真
 神池のほとりに、樹齢数百年余りの楠の大木があります。葉は茂っていますが、老木なので木の肌が苔(こけ)むした緑色になっています。 













8 総門(外構えの門)

総門の写真

 この門は、昭和5年(1930)北伊豆地震で破損(はそん)したので建て替えました。

 初めて台湾檜(ひのき)を使った神社建築の代表的建物の1つで、400kgの大注連縄(おおしめなわ)を張った壮大な門です。旧総門は修復、移築し、芸能殿として使用しています。


 9 茶室 不二亭(ふじてい)

茶室 不二亭の写真

明治の初め明治天皇が三島を通過の折、樋口本陣に宿泊しました。このとき使用した茶室が不二亭です。当時は小中島町(現、本町)樋口本陣の庭にあり、この茶室から富士山を眺めることができました。昭和27年(1952)に、保存のため三嶋大社境内に移築されました。



10 矢田部盛治(やたべもりはる)の銅像
矢田部盛治の銅像
 幕末の三嶋大社神主、矢田部盛治の銅像です。盛治は安政元年(1854)の大地震で倒壊した社殿を復旧させたり、祇園原(ぎおんばら)用水を建設して畑を水田化するなど数々の功績をあげました。像は文化勲章受賞者、澤田(さわだ)政廣(せいこう)の作です。











 11 頼朝
(よりとも)の腰掛け石

頼朝の腰掛け石
 平氏(へいし)との戦(いくさ)に破れた源義朝(みなもとのよしとも)の子、頼朝は伊豆国蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流されました。その後、源氏(げんじ)再興を願って三嶋大社に百日間の暁天(ぎょうてん)(注)祈願をしました。その際、境内にある椅子に似た形の石に腰掛けて休んだと伝えられることから、頼朝の腰掛け石といわれるようになりました。

今でもこの石に腰掛けて休む人が多く、七五三の祝い日に親子で腰を掛けている姿も見られます。隣に、頼朝の妻政子の腰掛け石もあります。

(注) あけがたの空



 12 神馬(しんめ)
神馬の写真
 神馬舎の中にある神馬は、神様の乗り物として古くは生きた馬が献じられましたが、今は木馬です。安政地震で破損したため黒漆塗に改めました。三嶋大社の神様は、毎朝この神馬にまたがって、箱根山に行ったと伝えられています。

神官を務めた矢田部家では、「いただきます」の代わりに「お馬さんがお帰りになった」と言ってから朝食を食べ始めたそうです。



13 神門(しんもん)

神門の写真

慶応3年(1867)に再建された唐破風造(からはふづく)り(注)の門です。この門より内が神域となっています。
 
(注) 屋根の切妻((きりづま)についている合掌形の装飾板 唐破風、千鳥破風などがある





 14 舞殿
(ぶでん)

舞殿の写真

 古くは祓殿(はらえでん)(注1)と呼ばれ神楽(かぐら)(注2)、祈祷(きとう)を行いましたが、後には舞を奉納したので舞殿と呼ばれるようになりました。現在は舞の他に、お田打(たうち)(県無形民俗文化財)、豆まきなどの神事を行っています。 

 慶応3年(1867)に再建されましたが、昭和5年(1930)に北伊豆地震にあって一部改修されました。

(注1)   お祓(はら)いをする殿社(でんしゃ)
(注2)   神を祀(まつ)るときに奏(そう)する舞楽(ぶがく)



15 本殿
(ほんでん)幣殿(へいでん)拝殿(はいでん)本殿の写真

 安政元年(1854)の安政の大地震で倒壊しましたが、当時の神主矢田部盛治が、幕府に復興援助の願いを出して、沼津城主水野出羽守(みずのでわのかみ)、韮山の代官江川太郎左衛門、小田原城主大久保加賀守(かがのかみ)らの協力を求めて、万延元年(1860)〜明治2年(1869)に再建しました。盛治は、自ら江戸の大名屋敷を訪ねて、寄付を募りました。

 平成12年(2000)に、国の重要文化財に指定されました。1番奥の本殿には、祭神が祀(まつ)られています。次の幣殿は神主がお祭りをする所で、1番手前の拝殿は、参拝する人が入る所です。これらの建物は総欅(けやき)造りで、本殿と拝殿の間に幣殿が納まっています。全国的に見て、拝殿の大きな神社は多くありますが、本殿の高さは23mにも及び、出雲(いずも)大社と並んで国内最大級を誇ります。

天の岩戸開きの図
天の岩戸開きの図


吉備真備囲碁の図
吉備真備囲碁の図


源頼政 鶴退治の図
源 頼政 鵺退治の図

 建物の内外には、名工たちによってたくさんの彫刻が施されています。拝殿正面にあるのが天照大神
(あまてらすおおみかみ)の天(あま)の岩戸開きの図、その裏側は高砂(たかさご)の図で、表は国の平和、裏は人生の平和を表しています。向かって右側は、遣唐使(けんとうし)吉備(きびの)真備(まきび)の囲碁の図で、真備が唐の名人と囲碁を打ち、勝ったことから知恵を表しています。向かって左側は源頼政(みなもとのよりまさ)、鵺(ぬえ)(注)退治の図で、勇気を表しています。

(注)頭部が猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に似ていたという伝説上の怪物


16 金木犀(きんもくせい)

金木犀の写真
 国の天然記念物です。樹齢1,200年と伝えられ、原産地中国でもこれだけの巨木は珍しく、9月から10月にかけて薄い金色の花が2回咲きます。昔から、その香りは2里(8km)四方に届くと言われています。

 



17 流鏑馬馬場(やぶさめばば)

流鏑馬の写真

流鏑馬神事が行われる馬場です。

三嶋大社の流鏑馬の起源は古く、文治(ぶんじ)元年(1185)源頼朝が大願成就(たいがんじょうじゅ)を祈願(きがん)し奉納(ほうのう)したのが始まりとされています。以来、明治4年(1871)に至るまで685年間、春、夏、秋と3回行われてきました。大社西側の細い道は、馬返しの道として使われていました。

一時期中断しましたが昭和59年(1984)113年ぶりに復活し、現在では三島夏祭りの呼び物の1つになっています。

射手を務めるのは「日本弓馬会(にほんきゅうばかい)」の会員で、昔の衣装に身を包み、三嶋大社境内の長さ約240mの馬場を馬で駆け抜け、60m間隔に設置された一辺約55cmの3個の的をめがけて次々に矢を放つものです。開催日時は毎年、三島夏祭りの最終日8月17日です。


出典 パンフレット『三嶋大社流鏑馬神事について』


 18 芭蕉(ばしょう)の句碑(くひ)

芭蕉の句碑

 元禄7年(1694)に松尾芭蕉が参拝の折、江戸に残した病妻の身を案じながら詠んだ句と言われています。
「どむみりと あふちや雨の 花曇」
   

 どむみりと:どんよりとした空のもと。
あ ふ ち:せんだんのことで6月末ごろに
小さな花を咲かせる。

19 芸能殿

芸能殿の写真

 安政大地震の復旧工事で、明治元年(1868)に総門として完成した建物。昭和5年(1930)の北伊豆地震で破損したため、修復してこちらに移築されました。

 20  宝物館

宝物館の写真
 
 三嶋大社の祭事、歴史、宝物などを分かりやすく展示する施設として、平成10年(1998)に新しくオープンしました。
 

国宝     梅蒔絵手箱(うめまきえてばこ)(北条政子奉納)
 重要文化財  太刀
(たち)(銘 宗忠(むねただ)
        脇差
(わきざし)(銘 秋義)
        般若心経
(はんにゃしんぎょう)(源頼家 筆)
        三嶋大社矢田部家文書等592点
 その他    古文書
(こもんじょ)、刀剣など多数

 出典 『三島市誌 下巻』p.551、『三島の昔話』p.56、『三嶋大社』p.2、『Welcome to ふじのくに 三島』p.63、三嶋大社説明文

 

三嶋駒(みしまこま)

三島駒 絵馬
三島駒 絵馬

 神社には、願掛(がんか)(注)やお礼参りのために奉納する絵馬(えま)があります。三嶋大社の源頼朝の旗挙(はたあ)げ絵馬、流鏑馬(やぶさめ)絵馬および恵比寿(えびす)絵馬などは有名です。

 三嶋駒は厚さが大は6cm小は4.5cmあり大社独特のもので、図柄はその年の十二支を美しく図案化したものです。お正月には、初詣でに来た人たちに人気があります。

(注)神仏に願いを掛けること

 

三嶋大社と源頼朝(みなもとのよりとも)

源頼朝

源頼朝のイラスト

 源頼朝は、平治(へいじ)の乱で父義朝(よしとも)が平清盛(たいらのきよもり)に敗れたため、延暦元年(1160)14歳で伊豆蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流されました。奈良時代以降、伊豆は遠流(おんる)(注1)の地だったのです。伊豆での頼朝は、父や一族の菩提(注2)を弔いながら、比較的自由に生活していたようです。

 治承4年(1180)流罪(るざい)が解かれ、頼朝は源家(げんけ)再興のために三嶋大社に百日詣(ひゃくにちもうで)の祈願を掛けました。そして同年8月17日大社神事の夜、伊豆目代くだい)(注3)山木判官平兼隆(はんがんたいらのかねたか)を討ち、旗挙げに成功しました。喜んだ頼朝は、翌日、三嶋大社を始めとする19の寺社に般若心経(はんにゃしんぎょう)を奉納しています。

 そして頼朝が三島に残した最大の功績は、文治(ぶんじ)3年(1187)、北条時政に命じて行わせた三嶋大社の修理造営です。鎌倉の街づくりにならって、大社前から大場まで参道を整備し、大場に一の鳥居、現在の大社町すじかい橋付近に二の鳥居を建てました。境内もほぼ現在の広さに拡張しました。

 鎌倉幕府を開いてからは、大社の祭礼に参詣できないことを残念に思い、田方の由緒(ゆいしょ)ある百姓を選んで征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)の装束(しょうぞく)を与え、代わりに参詣させました。これを頼朝(らいちょう)といいます。この、代わりに参詣する人が通った道間眠神社(まどろみ)の前を南北に延びる道を在庁道(ざいちょうどう)といいます。頼朝はそれほど熱心に三嶋大社を信仰していたのです。

(注1)最も重い流罪(るざい)。伊豆、佐渡(さど)、隠岐おきなどに流された。
(注2)死者の冥福(めいふく)を祈り、供養(くよう)する。
(注3)役人(代官とほぼ同じ)
出典 『頼朝の時代』、『ふるさと三島』


三嶋大社を崇敬(すうけい)した武将(ぶしょう)

 
 源頼朝をはじめとして、多くの武将たちが三嶋大社(注1)とかかわりを持ち、崇敬しています。主な出来事を紹介します。

1 承安(じょうあん)2年(1172)愛鷹山麓に兄の阿野全成(あのぜんせい)を訪ねた源義経は、東国へ旅立つ途中三島に泊まり、大社に武運を祈りました。

2 建仁
(けんにん)3年(1203)鎌倉幕府二代将軍源頼家(よりいえ)は、病気の回復を願って自筆の「般若心経」を奉納しました。

3 鎌倉幕府の執権
(注2)北条時政は大社と深い関係を持っていて、元久3年(1205)の大工事を含めて、大社の修理造営を5回も行いました。

4 建長4年(1252)の夏は大変な日照りだったので、鎌倉幕府の執権北条時頼は自ら大社に参詣して雨乞(あまご)いをしました。

5 南北朝
(なんぼくちょう)時代(注3)北朝側の足利尊氏(あしかがたかうじ)は社領を寄進、南朝は、所領内に起きた紛争を大社に有利に処理して、大社を味方にしようとしました。

6 貞和
(じょうわ)3年(1347)室町幕府二代将軍足利義詮よしあきら)は、鎌倉から京都へ行く途中、大社に立ち寄りました。

7 長禄元年(1457)関東公方
(くぼう)注4に任命された足利政知(まさとも)は、大社の神前で元服加冠(げんぷくかかん)(注5)の式を行いました。

8 明応2年(1493)12月26日から7日間、北条早雲
(注6)は関東制覇(せいは)を願って大社にこもりました。

9 永禄12年(1569)武田信玄の軍が大社に乱入、焼失させましたが、北条氏政
(注7)はすぐに仮本殿として復旧しました。

10 文禄3年(1594)徳川家康が、330石を寄進しました。また慶長9年(1604)10月18日付の書状で、関ヶ原の合戦の功により、家康から大社に対して200石の加増がありました。

11 寛永11年(1634)三代将軍徳川家光が社殿を造営しました。また寛永14年(1637)には太刀
(たち)2振(ふり)を奉納しています。

(注1) 中世には三嶋大明神などと呼ばれていましたが、ここでは三嶋大社に統一しました。以下大社とします。
(注2) 将軍を補佐して政務を総括した最高の職
(注3) 京都(北朝)と奈良の吉野(南朝)の両方に朝廷ができて対立していた時代
(注4) 室町幕府が関東の政治を総括させるため鎌倉に設置した職
(注5) 男子が成人になって、初めて冠をつけること
(注6) 戦国大名後北条氏(小田原北条氏)の祖
(注7) 後北条氏の第4代目


愛染院(あいぜんいん)

藍染院跡の写真 愛染院跡
溶岩流

 愛染院(真言宗高野山派(しんごんしゅうこうやさんは跡溶岩塚は、JR三島駅から南に200m下ったところにあり、1万年〜1万4千年前の富士山から流出した溶岩流の末端に位置しています。

この愛染院当主は、室町時代に三嶋大社の別当職(注1)を勤め、境内にあった護摩堂(ごまどう)を支配していました。伊豆では随一の大寺院であったと推定できます。幕末には、三嶋大社の社僧(注2)として神主の支配下に入っていましたが、安政の大地震で倒壊した堂宇(どうう)(注3)は再建されませんでした。明治元年(1868)に神仏分離令(注4)が出されると、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(注5)の波が押し寄せ、三嶋大社神主の命で社僧は還俗(げんぞく)(注6)させられ、勢力を誇った名刹(めいさつ)(注7)も、大きな時代の変革期にあっけなく歴史から消え去ってしまいました。

(注1) 事務長官
(注2) 神社で仏事を修めた僧侶
(注3) お堂
(注4) わが国固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷して融合調和するという神仏習合を廃止する命令
(注5)  神仏分離令で神道が国教化されたため、極端な廃仏運動が起きた
(注6) 出家した人が普通の人にかえること
(注7) 名高い寺


出典  『三島市誌 増補 資料編』p.1102、郷土館だよりVol.8、No.3

社家村(しゃけむら)

 三嶋大社の神職に従事する人々が住む地域が大社を取り囲むようにあり、江戸時代には社家村と呼ばれていました。祭りなどの神事を行う神主、大社の営繕をする宮大工、警備をする番士、暦師(河合家)などが、大社の発展とともに独自の村を築き、三嶋大社独特の文化を守ってきました。

当時、三島宿は伊豆国君沢郡で、三嶋大社と社家村は伊豆国賀茂郡に属していました。社家村は、大社から見て、東は大場川(神川(かんがわ)、北は現在の東海道線までの範囲でしたが、明治4年(1871)に、三嶋大社境内以外は一旦政府に返されました。

祇園山(ぎおんさん)隧道(ずいどう)

祇園山鳥居下隧道
新幹線下 用水トンネル
新幹線下 用水トンネル

 祇園山腹を掘り抜いて沢地川から水を取り入れ、祇園原(ぎおんばら)へ水を通した延長248mの隧道をいいます。

 現在のキミサワ加茂川店の西、祇園山にある賀茂川神社の鳥居のすぐ下に、当時の素掘りの隧道を見ることができます。

 現在、この隧道は使われておらず、昭和38年(1963)よりそのすぐ北、新幹線の土手のコンクリート打ちしたトンネルが使われています。

 三嶋大社の神主矢田部盛治(もりはる)は、米が農産物の主力であった時代に、祇園原一帯は水がなく畑地であったので、これを水田化して米を作りたいとする農民の願いを、民生安定の道であると考え、私財を投じて建設したのがこの祇園原用水です。

 安政地震(安政元年(1854))の復旧という難事業の中にありながら盛治は、まず手始めに壱町田の畑の水田化を考え、並木(なみきすぎ)の大木、目通り(注1)7尺(2.1m)の中をくりぬいて、総延長103間半(188m)の木の樋(とい)を作り、沢地川の水を引き、安政2年(1855)水田化に成功しました。

 この経験をふまえて慶応4年(明治元年(1868))、祇園山腹にトンネルを掘り抜き、沢地川の水を祇園原に引く計画を告げ、尻ごみする地主、農民を説得して工事に着手し、沢地川取水口(しゅすいぐち)から掘割546m、トンネル248m、総工費859両5朱2貫530文(注2)の私財を投じて明治4年(1871)完成し、総計15町歩(14.9ha)の水田化を成し遂げ、生産増強と民生向上に尽くしました。

 近くに祇園原(ぎおんばら)開発の碑があります。これは後世(こうせい)その徳をたたえ、その恵み(恵沢(けいたく))を長く忘れない(惟長(ゆいちょう))ために、昭和25年(1950)に宮町水利組合が建てたものです。

(注1)目の高さの直径
(注2)現在の価額に換算すると約6,500万円と思われます。
出典 『三島市誌 下巻』p.905、『ふるさと三島』p.97、『ふるさとのしおり みしま』p.245

千貫樋(せんがんどい)

                               
昔の千貫樋
昔の千貫樋(三島宿風俗絵屏風)                              
現在の千貫樋の写真
  現在の千貫樋

境川の上をまたいでいる、樋(とい)のようなコンクリート製の農業用水路があります。これが千貫樋です。ここを通って三島市から清水町へ流れている水は、楽寿園の小浜池から流れ出ている蓮沼川(はすぬまがわ)から引かれています。この水は清水町の伏見、長沢、八幡(やはた)、柿田、玉川の5カ村の田んぼを潤(うるお)しています。

千貫樋が初めて作られたのは、応永3年(1396)とも、応仁3年(1469)とも言われています。伊豆の北条氏が駿河の今川氏の領地に水を送ったのです。幅6尺(1.8m)深さ1尺5寸(0.45m)長さ25間(45.5m)高さ1丈4尺(4.2m)の木の樋を架ける大工事でした。

木で作られたため、腐って壊れてしまい、天文24年(1555)に復旧したと言われています。そして大正12年(1923)の関東大震災でまた壊れてしまいました。今度はコンクリートでしっかりと作られました。今も用水路としてりっぱに役立っています。

干貫樋の名前の由来はいろいろあります。作る技術が千貫に当たるから、5つの地域で収穫されるお米が千貫に当たるから、作った費用が当時のお金で千貫文に当たるからとか言われています。

出典 『三島市誌 下巻』p.851、『三島いまむかし5』p.105、『ふるさと三島』p.183、『ふるさとのしおりみしま』p.35



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