三島の工業明治初期までは、工業といえるものは紙や和傘や簡単な道具造りでした。明治政府の政策により三島にも銀行ができ、産業育成に資本が投下されるようになりました。明治6年(1873)ごろに座繰(ざぐ)り製糸と呼ばれた人力による小規模の製糸家内工業がありました。明治20年(1887)ごろになると、製糸業は水力や蒸気力を利用して機械化され、輸出用生糸を生産するようになりました。明治30年(1897)前後の三島の人口のうち、約15%の人々が製糸業で働いていました。明治中期に花島兵右衛門が手掛けたミルク工場は、大正中期から昭和初期にかけて、三島の工業生産額の首位を占めました。昭和9年(1934)丹那トンネル開通にともない三島駅が誕生したことや、昭和16年(1941)の市制施行(しせいしこう)などで、人口が3万人を数えるようになりました。 昭和15年(1940)には軍需産業の波に乗り、水車、ポンプ、ディーゼル機関を製造する電業社が設立され、翌年の第2次世界大戦勃発にともない、中島飛行機製作所が造られ、昭和19年(1944)には飛行機のタイヤ製造のために明治ゴム工場も設立されました。明治ゴム工場は、終戦の年昭和20年(1945)に横浜ゴム三島工場となり現在に至っています。 戦後の食糧不足解消策として、脱殼機(だっこくき)などの農機具や農薬の製造が盛んになりました。各種の機械会社や三共製薬の前身が創業されました。 昭和25年(1950)の国勢調査では、工業従事世帯は商業従事世帯の2倍になりました。さらに、この年に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争がもたらした軍需景気で、昭和27年(1952)には工業生産額が2倍以上に増加しました。 三島の豊富な地下水を利用するために、昭和33年(1958)に東洋レーヨン(現在の東レ)をはじめとして、裾野市や長泉町に多くの企業が進出しました。その後市内には、工場の育成、合理化及び市内の環境保持を目的として2つの工業団地ができました。昭和42年(1967)設立の三島工業団地と平成4年(1992)設立の沢地工業団地です。これらの工業団地の移転や技術革新などの時代の流れで、旧市街地の住宅地に混在していた町工場の姿はだいぶ少なくなっています。 昭和5年(1930)ごろの工業のようす
平成10年(1998)の工業のようす
昭和5年(1930)ごろの三島町の人口(22,784人)に占める工業に働く従業員数の割合は0.82%と、1%にも達しませんでした。 平成10年(1998)は、低成長下でリストラの影響があって、5年間で約5%の人員削減がありました。三島市の人口に対する工業で働く従業員数の割合は、約10%となっています。 出典 『三島市誌増補』p.318、『三島』(平成6年版)p.131 練乳(れんにゅう)作りの苦労明治12年(1879)、33歳のとき花島兵右衛門(はなじまひょうえもん)は、風邪がもとで肺炎にかかりました。幸い病気は2週間で完治しましたが、身体が大変弱り、このとき「体力を元に戻すには、牛乳を飲むことがいい」と勧められたのが、牛乳販売のきっかけでした。明治18年(1885)乳牛8頭を買い入れ「豊牧舎」と名付けて、牛を飼い、乳を搾って売り出す仕事を始めました。明治21年(1888)には、20頭の牛を買い入れましたが、そのころは牛乳を飲む人も少なく、毎日同じ量が売れるとは限りませんでした。そこで東京農科大学の玉利喜造(たまりきぞう)教授の指導協力を得て、1年半近く研究と実験を繰り返し、残った生の牛乳を鍋で煮詰めて、練乳(れんにゅう)(コンデンスミルク)を作り、「金鵄(きんし)ミルク」と名付け、明治25年(1892)から売り出しました。 兵右衛門は、北海道から牛を買い入れ、田方郡の農家の人たちに、牛を飼うことを勧めました。牛の糞(ふん)が田畑の作物の肥料として大変効き目があることも分かり、農家の人々がだんだん牛を飼うようになりました。 出典 『郷土の発展に尽くした人々 上巻』p.20
久保町(現、中央町)に生まれ、幼いころから小田原の呉服商辻村家で商業の見習いをし、33歳のとき父親が死去して、家業の酒造業を継ぐことになります。家業に精を出す一方、三島町会議員に選ばれるなど、公職も歴任しました。吉原呼我(よしわらこが)を助けて、私立漢学専門学校「中権精舎(ちゅうけんしょうしゃ)」を創立したり、有志で金融相互組合「信友社(しんゆうしゃ)」を興(おこ)すなど、後年のさまざまな事業の足がかりを築いていきました。 明治19年(1886)、キリスト教への入信が兵右衛門の生涯を方向づけました。創立間もない三島教会で一家7人洗礼(せんれい)を受け、家業の酒造業を廃業し、酒蔵を礼拝堂に改造するという思いきった転身を図った後、矢継ぎ早にさまざまな事業に、私財を投じています。改造した酒蔵の2階に県下初のキリスト教女学校、バラ女学校を創立し、女子教育に力を注ぎました。 明治27年(1894)、兵右衛門は三島銀行を創立し(現、中央町)、大正11年(1922)まで頭取(とうどり)として活躍しました。このほか、明治31年(1898)に開通した豆相(ずそう)鉄道(下土狩〜伊豆長岡)の協力会社として、兵右衛門が中心となって伊豆鉄道株式会社を設立しています。兵右衛門の偉業をたたえる碑「花島練乳所」は、後の森永乳業跡の南二日町市営住宅の一角に建てられています。
→ 吉原呼我、中権精舎、バラ女学校、三島銀行、伊豆鉄道株式会社 出典 『三島市誌中巻』P.757、『三島市誌下巻』p.598、 『郷土の発展に尽くした人々 上巻』p.20 『花島兵右衛門(三島市郷土資料館)』
三島の水と明治の産業明治期における三島を含んだ田方郡下の製糸工業は、県下各地の比較で工場数第3位、職工数第2位と県下でも屈指の隆盛をみました。このように製糸業が盛んになったのは、まず夏冬変わらない豊かな水の流れがあげられます。当時、既に他工業に先駆けて蒸気機関が採用されたのにもかわらず、なお動力の主流は、水車を回し座繰(ざぐ)り機械を動かす水力利用でした。しかし、動力には最適の三島の水も鉱気(かなけ)があって、製糸の晒(さら)しには良くなかったそうです。また、大宮町裏の瀬戸川(現、御殿川)の水流に沿って河辺(かわなべ)製紙場(創始者河辺富助(とみすけ))があり、この工場で作った製紙は「瀬戸川改良紙」と称され、品質も優れ各地の博覧会、共進会で数多くの賞を受けています。河辺製紙場は順調な生産を続け、色紙、襖(ふすま)用大平紙(たいへいがみ)などの製品は全国に配送され好評であったということです。 出典 『郷土資料館だより 第9号』
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染物業(そめものぎょう)(紺屋(こうや)) |
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かつて三島では、湧水(ゆうすい)の川を利用して染物業が盛んに行われていました。三島の水は夏冷たく冬暖かく、年間を通して15度と変らず、その上、染物に適しており、木綿、麻などの型付けをした布を川に浸しておくと、川の流れがきれいに晒(さら)してくれます。 昭和2年(1927)ごろ三島には染物屋が22軒ありました。(上図を参照)当時は全部分業で、下絵師から糊付け屋へ、そして染物屋へ回ってきます。例えば、夏時分に頼んだ糊付けが暮れの25日ごろなってもまだできてこなくて、そのしわ寄せで染物屋は寝ずに仕事をしたそうです。糊付けができなければ「染めたくとも染められない」転じて「期日を守れない」という意味で「紺屋のあさって」ということわざがあります。 紺屋の仕事は、1つでも手抜きをすると、仕上がりにすぐ表れます。紺屋の仕事は、暑かったり、寒かったりするので、技術はもとより体も丈夫でなければ勤まりません。意外なことに、不景気になると神頼みをするのか、幟(のぼり)の注文が増えます。暖簾(のれん)も同様に、飲み屋さんが不景気なときほど注文が増えます。それだけ店の持ち主が頻繁(ひんぱん)に変わるのでしょう。 紺屋はお天気と水が勝負だそうで、それがなければ仕事が成り立ちません。三島の空気と水を守っていかなければならない、ということです。 花火と染物(そめもの)東本町にある染物屋「遠州屋(えんしゅうや)」の高林保巨(やすたか)さんに「花火と染物」についてお話を伺いました。「私の家の屋号は遠州屋と申しますが、これは先祖の出身地が遠州浜松であることに由来します。もともとそこは打ち上げ花火と染物の産地で、農業のかたわら夏は花火、冬は染物で働き、毎年三島の町に打ち上げ花火の技を競いに来たそうです。 花火と染物は一見無関係のようですが、火薬と染物に使う薬品には色を出すという大きな共通点があります。毎夏、三嶋大社に来ていた初代は、三島の水に惚れ込み、この地に腰を据えて染物屋を創業し、明治28年(1895) 48歳で三島の町に骨を埋めました。そして現在は、4代目の私と5代目の息子と親子仲良く家業をやっています」 出典 『郷土資料館だより 第66号』 三島の和傘(わがさ)
三島和傘は、徳川幕府最後の将軍慶喜(よしのぶ)にゆかりがあります。明治維新後、慶喜に従って駿府に生活の地を求めてやって来た武士たちの中の、三島に落ち着いた人たちが、三島和傘作りの元祖ではないかと言われています。和傘を作る竹は箱根山地からとれたもので、和紙は三島内外で生産されたものを原料にして作られました。明治、大正、昭和と、和傘作りが人から人へ伝えられてきました。 初めは、直接注文でしたが、やがて製造と販売とに分かれ問屋ができました。昭和の初期には、製造に携(たずさ)わる家は30軒くらいで、職人は90人近くおり、下職(したしょく)や内職の人を加えれば、大変な数の人たちが和傘で生計を立てていました。優れた職人でも1日3本仕上げるのが限度だったそうですが、生産数は10万本を越えました。三島の風物詩に和傘の天日干(てんひぼ)しの情景がありますが、当時の隆盛ぶりが伺われます。 三島和傘は品質が優れており、全国品評会でもたびたび入賞しました。しかし、時代の変化により、工場生産の洋傘の普及が進み、代々傘作りに従事した家は転業を余儀(よぎ)なくされました。三島和傘の伝統を1人で守ってきた碓井善太郎(うすいぜんたろう)さんも、平成3年(1991)に傘作りを断念しました。 出典 『三島市誌増補』p.334
馬具屋(ばぐや)
「私は大正10年(1921)生まれで、平成12年(2000)で79歳となります。東京京橋越前堀(えちぜんぼり)にあった「池上馬具店」に、先に奉公(ほうこう)していた兄が昭和6年(1931)に満州事変で兵隊に取られた後奉公にあがり、礼奉公を含め6年の年季(ねんき)を務めました。そのころですが、今の天皇陛下がお生まれになったとき、宮内庁(くないちょう)の御用達で仕事をさせていただきました。それがご縁で、昭和34年(1959)の皇太子様(今上天皇)と美智子妃のご成婚式での儀仗兵(ぎじょへい)(注1)の乗馬具40余鞍(くら)を兄とともに納めさせていただきました。 奉公に上がったころは、馬具屋も、農馬具と乗馬具とに分かれ、しかも鞍と付属品(手綱(たづな)、頭絡(とうらく)、馬銜(はみ)(注2)、腹帯(はらおび)、肢巻(あしかん)など)を分業して作っておりましたが、私と兄は親方よりすべてを伝授されました。 私は、昭和17年(1942)に太平洋戦争(第2次世界大戦)で召集され、昭和21年(1946)に復員しましたが、そのころ三島競馬場があったので、この場所で馬具屋を始めました。 今は三嶋大社の夏祭りの呼び物になっている頼朝公旗挙げ行列の馬装を、三島商工会議所の依頼で手がけています。外国製品が半値以下で入るので最近は鞍(くら)を作っておりませんが、御殿場や大学の乗馬クラブなどから注文があり、鞍(くら)の修理や付属品を作らせていただいています。しかし、この商売も私一代で終わりです」 (注1) 儀礼、警備のために、天皇、皇族、大臣或いは外国の賓客などに付けられた兵隊 (注2) 馬の口中にくわえさせる 三島工業団地
鉄工団地とも呼ばれている三島工業団地は、昭和36年(1961)に市内鉄工同志会(36人)が組合を作り、三島市と三島商工会議所が協力し、中小企業基本法により郊外の長伏に建設され、昭和42年(1967)に完成しました。 この団地の建設により企業の高度化、体質改善、設備近代化などが進められ、活気がみられるようになりました。また、まちの中央部や住宅地にあった工場の移転により、その地域の騒音(そうおん)、臭気(しゅうき)、排水などの問題も解決し、団地内においてもメッキ汚水共同処理場のほか施設が整備され、騒音、排水などによる公害防止に役立っております。 建設当時は、参加工場33企業が進出しましたが、平成12年(2000)現在 29の企業によって運営がなされています。工場の従業員数は、120人から数人の小工場まであり、独立メーカーも7工場あります。独立メーカーは、部品の受け入れから製品の完成までを、隣接する協力工場の操業状況をつかみながら一貫作業で行うなど、協力工場との結びつきが生産性の向上に効果をあげています。 また、営業、受注の安定や技術開発の問題、求人対策など各企業の生産から雇用に至る問題を組合として取り組んでいることも、集団化して、協同組合を作った目的の1つであり、その機能が現在発揮されております。 出典 『三島市誌増補』p.328、『三島』p.35 三島沢地(みしまさわじ)工業団地
三島工業団地(鉄工団地)の建設によって、三島市の町工場といわれる工場の抱えている問題は、かなり解決の方向に向いてきたとはいえ、まだ三島の中小工場の多くは、大部分が市街地に散在し住宅と工場が隣接する住工(じゅうこう)混在(こんざい)都市となっていました。「公害防止事業団」の工場移転用地造成譲渡事業のバックアップを受け、このような状況を打開するため工場配置の適正化をねらいとする工業団地を造成し市街地に点在する中小企業の集団化を図るために、平成元年(1989)沢地地区に第2の工業団地が建設されました。 平成12年(2000)現在、食料品製造、電気・機械器具製造業を中心に14業種30の企業が進出しており、団地内の工場には約800人の人々が従事しており、交通網(こうつうもう)の整備などにより、まだまだ発展する余地を残しております。 出典 『三島市誌 増補』p.329、『三島』p.35 工場訪問三島の工業の姿を従業員規模別工場数で見てみると、平成10年(1998)の総数506工場のうち従業員数300人以上は1%(5工場)、30人から299人までは9.7%にすぎません。これらの工場が、環境問題などにどう取り組んでいるのか訪ねてみました。東レ株式会社三島工場 ![]() 現在は、繊維のほかにフィルムや医療(いりょう)関係製品まで多くの製品を生産しています。 三島の湧水不足に対しては、行政からの要請に基づき、昭和38年(1963)から協力体制をとっています。また、グラウンドワークの活動が三島で始まり、三島ゆうすい会などの市民団体の要望もあり、空調機械冷却水(れいきゃくすい)に1度だけ使用したきれいな湧水を、1時間当たり700 t 源兵衛川と蓮沼川(はすぬまがわ)(宮さんの川)に放水しています。農繁期(のうはんき)には最大1時間当たり1,500 tを放流し、市民および行政から高い評価を得ています。 参考 『東レ社内報ぴいぷる』 東芝テック株式会社三島事業所 ![]() 源兵衛川の清掃ボランティア活動や、体育館及びグラウンドの貸し出しなど地域社会とも協調し、「かけがえのない地球環境」と「水と緑と文化のまち三島」を次世代に引き継ぐために、事業所の環境保全基本方針に基づき、継続的に取り組んでいます。 (注1) 環境マネージメントシステムの国際規格 参考 『東芝テック三島事業所会社案内』 株式会社電業社(でんぎょうしゃ)機械製作所三島事業所 ![]() 事業所は、三島市街の西方に位置し、緑町、清住町(きよずみちょう)、三好町にまたがる広大な敷地を有していますが、地域住民との融和(ゆうわ)を図るため、毎年8月に行う工場祭に3町全戸を招待しています。また、毎月1回、工場周辺の巡回(じゅんかい)パトロールでのタバコ吸殻拾いや源兵衛川などの川掃除に参加しています。 参考 『三島事業所』((株)電業社機械製作所) オムロン株式会社三島事業所 ![]() (注) 国際標準化機構(ISO)の品質保証規格 参考 『オムロン三島事業所案内』
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