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三島の農業

稲作(いなさく)の歴史(れきし)

 
     コンバインでの収穫作業の写真コンバイン

 三島の人々の生活は、縄文(じょうもん)時代まで狩猟(しゅりょう)採集中心でしたが、弥生(やよい)時代に入り、境川、御殿川、狩野川の中郷地区を中心に集落を形成し、農耕が始まりました。古墳(こふん)時代から奈良時代にかけて田植えをするようになり、また、土木技術が発達するにつれ川から水を引く灌漑(かんがい)が行われるようになり、水田が大きく増えました。特に、戦国時代から江戸時代にかけて開墾(かいこん)を行い、ほぼ現在の水田面積になったといわれています。農具は、縄文から弥生までの稲作の初期のころは、木製の鍬(くわ)や田下駄(たげた)などが使われていました。その後古墳時代からは、鉄製の農具が使われています。戦後は、田植え機やコンバイン(注)が使われるようになり、農作業はたいへん楽になりました。平成10年(1998)の三島の米の生産量は1,340tで、中郷地区を中心に作られていますが、住宅や工場、道路が造られ、一方では消費が減ったために減少してきています。


 (注)稲刈りと脱穀と袋づめが一度にできる

 出典『米作りのくらし』(三島市郷土資料館)

昔の田植え

牛とソートメサン
牛とソートメサンの写真
 6月は梅雨のうっとうしい日々が続きますが、農家の人たちはこの雨を待って田植えを始めるのです。田植えや田起こしが現在のように機械化されるようになったのは、昭和30年代後半からでした。それまでは、犂(すき)で丹念に田起こしし、手で苗を植える重労働でした。

 
農家のおじいさん、おばあさんたちに昔の田植えの話を伺うと、毎朝4時前に起きて5時前には田に入って植えたと言います。妊婦(にんぷ)もお産前日まで田植えをしたとか、とにかく6月は田植えで大忙しでした。田植えのとき、水田に水が欠かせませんが、限られた量の用水を上流地域から配分するため、早い所では1月の初寄合の席で田植えの日程が決められ、その日程内に田植えを終わらせなければなりませんでした。そのため数軒の農家がイイ(結い)を組み、田植えのソートメサン(早乙女さん)を貸し合い、町場からソートメサンを雇うなどして人手を確保しました。男衆は、苗が真っ直ぐ植えられるようにソートメサンたちの前に赤い目印のついた縄(縄張り棒)を張り動かしたり、苗を運び田に投げ入れたり、代(しろ)ならしをします。

 また、田植え前の田起こしや代
(しろ)かきに、なくてはならないのが牛や馬でした。馬は裕福な農家しか飼うことができませんでしたので、御殿場、裾野、須山まで借りに行きました。牛を飼う農家では、牛を家族の一員のように大事にしました。お祭りのときには牛や馬にもダンゴを食べさせました。また長年働いた牛馬が死ぬと、埋葬(まいそう)し、そこに馬頭(ばとう)観音(かんのん)を祀(まつ)っています。

 田の代かきをするとき、その牛や馬を先導する鼻取り役は子供たちの仕事でした。昔は、田植え休みが学校の休みとして認められていたのです。

 一家総出の田植えが終わると、マンガライ(馬鍬
(まぐわ)洗い)という農家の休みになります。農具はていねいに洗われ、餅が供えられ、農家の人たちは温泉に行き、疲れを癒(いや)しました。

 マンガライ(馬鍬洗い)のころになると、梅雨も明け本格的な夏となります。


出典 『広報みしま853、郷土資料館シリーズ 145』



野菜栽培(やさいさいばい)の歴史

 徳川家康が江戸に幕府をたてると、箱根地域は交通の要所として開発されました。その箱根西麓の村々で、明治時代から、キャベツ、ニンジンが栽培され始めました。また、明治22年(1889)に東海道線が開通すると、関東関西方面に向けての本格的な産地となり、大正から戦前にかけて大変栄えていました。戦後、ビニールハウスが増え、トマトやキュウリの栽培が盛んになりました。三島での野菜の生産量は、平成11年(1999)で約15,000tになっています。

 三島の野菜、特にダイコン、ニンジンなど根ものは、火山灰土の土地で栽培されるため、形がよく美味しいと、全国的にも有名です。最近では、三島市主催の野菜ツアーもあり、県外からの人が参加するなど人気があります。



畜産(ちくさん)の歴史

畜産大会の写真 酪農(らくのう)に古い歴史がある三島では、昭和30年(1955)ころから、畜産物を多く消費するようになり、そのころまで米などを作りながら、1〜2頭の牛や豚を飼っていたものが、畜産専門にやる農家が増えていきました。しかし、その後、安い外国からの畜産物の輸入が増え、その影響で畜産農家の数も減少しています。

 平成11年(1999)の家畜
(かちく)飼養(しよう)状況(じょうきょう)は、乳牛860頭、肉牛1,110頭、豚16,500頭、採卵用鶏(にわとり)6,500羽で、畜産農家は60軒余となっています。

出典 『三島市誌増補』p.254、『三島の統計2000』


田の字型農家の間取り(まどり)

農家の囲炉裏
農家の囲炉裏の写真
 昔の農村は、茅葺(かやぶ)き屋根の農家が、田 畑中に寄り添うように集落を形成している風景が一般的でした。

 農家の間取りは「田の字型」をしていて、オオドグチ(あるいはトンボグチ)を入ると、ニワと称する土間があります。ニワにはヨナベ(夜の作業)の藁
(わら)仕事のための石が埋めてありました。ニワの奥はカッテバ(勝手場)です。流しやヘッツイ(かまど)があり、主婦が野良着(のらぎ)のまま食事の支度ができました。ニワを抜けると背戸口(せどぐち)です。田の字型の間取りは、表側の部屋がナキャア(中居)と座敷、背戸側がデャアドコ(台所)と納戸の4間取りです。中居と座敷は、祝言や葬式やオフルマイ(人寄せの村行事)などのとき、2間続きの大部屋となります。納戸(なんど)は家長夫婦の部屋でした。お産の際にも納戸が使われました。

 一家の中心の部屋は台所でした。ここはユリイ(囲炉裏
(いろり))が真ん中にあり、囲炉裏を囲んで団らんがありました。四角形の囲炉裏の周囲にはそれぞれ名称があり、座る位置も決まっていました。家長はニワに向かって座る一番奥の席、横座です。広間を背に座る客座で来客を接待したものです。主婦の座は客座の向かい側でしたが、特別な名称はなく勝手場に近く給仕が便利な場所です。横座に向かい合ったニワ側は木尻(きじり)といわれ、燃し木を置く場所でした。

 このように部屋の中心に炉を持つ台所は、原始時代の竪穴
(たてあな)住居に起源する部屋と考えられます。

出典 『広報みしま615、郷土資料館シリーズ15』


雨乞(あまご)

 加茂川神社の雨乞灯籠
雨乞灯籠之写真
 農業にとって用水の問題は深刻でした。日照りが続くと、農民は総出で神に祈り、龍神(りゅうじん)を作って村内をねり歩く「雨乞い」の行事をしたことが、各地に伝わっています。

 箱根西麓の三ッ谷は村中総出で、藁
(わら)、麦藁(むぎわら)を持ち寄り、龍を作りました。村内を担(かつ)いで回り、松雲寺(しょううんじ)の僧に読経(どきょう)をしてもらいました。景気づけに鐘を鳴らしたり、龍に水をかけたり大騒ぎのあと、山田川に流して雨乞いをしました。

 また、市内の旧宮町の人々は、祇園山
(ぎおんさん)(賀茂川神社)の境内でお題目を唱えて、雨の降るのを祈りました。この賀茂川神社には1基の石灯籠(いしどうろう)があって、灯籠(とうろう)の竿(さお)に「夕立や 我が田畑では なけれども」との乙(おつ)児(芭蕉の弟子)の句が刻んであります。

 昔、能因法師
(のういんほうし)(平安時代の歌人)が、歌の徳により日照(ひで)りに雨を降らせたという伝説に因(ちな)んで、この句を刻んで寄進したものだと伝えられ「雨乞灯籠」と言われています。

出典 『三島市誌増補』p.843



三島の農業用水

 水の都といわれた三島は、その名に恥じず各用水とも比較的水量が豊富です。農業用においても、昭和30年代後半以降の湧水(ゆうすい)の渇水(かっすい)以外は、各用水路の分水と排水を誤らない限り、全水田に必要にして十分な用水を得ることができていました。

 用水の水源は、箱根西麓斜面を源とする、「境川」(現、大場川)「沢地川」「山田川」「宮川」「来光川」などの自然河川
(かせん)と、富士山南麓水系に属しているいわゆる「三島湧水」と称されている「菰池(こもいけ)」「浅間(せんげん)」「小浜」「水上」「西町各所」及び「竹倉湧水」が主体となっていました。別な表現を借りれば「三島は富士山、箱根の山という2つの大きな水瓶(みずがめ)を抱えている」ということになります。

 伊豆一の大河「狩野川」は、河面が両側の耕地面よりはるかに低いため、中郷地区の灌漑用水としては全然無能な川で、むしろ、しばしば起こる大洪水に、地域を挙げての治水対策に奔走(ほんそう)させられるのが実態でした。三島地域第一の大川、大場川も同様で、とくに下流地域の被害は甚大
(じんだい)で、昔からこの地域の村落で行われてきた「お天王さん」の祭りは、まさに治水祈願(ちすいきがん)そのものでした。

 三島の農業用水路は三島水田地帯の地形が、いわゆる「三島扇状地」(黄瀬川扇状地の一部分)と、箱根西麓各丘陵地
(きゅうりょうち)の間に発達した「小扇状地」や谷戸(やと)(低湿地)や、沖積地(ちゅうせきち)で形成されている関係から、ほとんど自然流下用水路でした。しかも、各水田の1枚1枚に、用水路から直接水を乗せることができるようになっていました。


中郷用水地図

水論(すいろん)(水争い)

 昔から稲作農家にとって、田に水を引き入れ排することの可否(かひ)は、一家ばかりではなく、時には一村落の死活問題で、しばしば近隣の他家、他組、他村との利害関係が対立しました。この問題解決のため、いわゆる「内済(ないさい)」(示談)による契約が結ばれ、それぞれの場合の用水慣行(かんこう)が成立して守られていました。しかし、種々な条件が切迫(せっぱく)して、この「用水慣行」の範囲が守られない命がけの事態になると、必ず一方が慣行を破り、暴力的実力行動がとられました。これが水論(水争い)の起こりでした。

 「我田引水
(がでんいんすい)」という言葉が残っていますが個人の水争いは日常茶飯事(にちじょうさはんじ)の如く発生し、時々は殴り合いも起きたそうです。水論の中には、慶応3年(1867)の「小浜用水」に関する中の郷13ヶ村組と駿東郡5ヶ村組の抗争を始め、用水争奪(そうだつ)の争いが断然多かったのですが、中には悪水払い(注)や洪水被災に関する争いもありました。

 そして、個々、村々の利害を超越
(ちょうえつ)し、同じ水系に生活をかける人々が集まって作った「用水組合」が、用水管理の実権を握るようになると、用水の配水の合理化と公平を期すために、「水番」あるいは「水掛け人」(または水配人(みくまりにん))制度が採用されるようになりました。この水番の人選については、人物的にも技術的にも人望のある人を選任するのが通例で、多くの場合有給で、その権威は極めて大きなものがありました。

 しかし、中には順番制を採用した村落もありました。この水番制度は、小さな水争いの防止にいかに役だったかは計り知れませんが、今でも御園
(みその)や梅名に残されています。また、用水組合の権威は偉大で、例えば、箱根全山の用水管理権を持つ川原ヶ谷の組合許可なくしては、飲料水といえども利用することができなかったようです。


(注) 汚れた水、余分な水を流すこと
出典 『三島用水史』p.15、『なかざと村』p.15


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