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公園


三島の公園の地図


三島市立公園楽寿園(みしましりつこうえんらくじゅえん)
国指定「天然記念物・名勝」

              小浜池から楽寿館をのぞむ(湧水時)
小浜池から楽寿館の写真


 JR東海道本線三島駅南口に降り立つと、三島市立公園「楽寿園」のうっそうとした森がすぐ前に広がっています。広さは約6.7ha(2万坪)で、園内には、楽寿館、小浜池、日本庭園、万葉の森、遊園地、動物園、三島市郷土資料館などがあります。約1万4千年前といわれる富士山の噴火で流下した溶岩がこの地で止まり、高温のまま急激に冷却された縄状(なわじょう)溶岩や餅状(もちじょう)溶岩が園内で見られます。これは「三島溶岩流」と呼ばれ、地質学上大変貴重な資料です。この岩盤の上に植物の種子が落ち、芽を出して大きくなった160種類以上の樹木が自然のまま生育しています。また、30数種以上の野鳥がこの森にすんでいます。このように都市部に自然林がそのまま残されているということは大変珍しいことで、三島の宝物です。

 溶岩下の末端や隙間
(すきま)から湧き出る富士山の雪解け水と自然林を生かした庭園は、昭和29年(1954)に、国の天然記念物及び名勝に指定されました。

 この地はかつては樹木の中に清水がこんこんと湧き、浅間
神社、七面堂(しちめんどう)、愛染院などの神社や寺院が点在する聖なる地として位置付けられていました。明治23年(1890)、富士裾野の軍事演習で三島を訪れた小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王(しんのう)がこの地を気に入られ、別邸楽寿館を築きました。京都生まれで風雅を愛された宮様は、自然を巧みに利用した日本庭園と数寄屋造(すきやづく)りの邸宅など工夫をこらし、楽寿園は東海の名園として知られるようになりました。

 明治44年(1911)朝鮮の李王世子垠殿下
(りおうせいしぎんでんか)に譲り渡されました。李王家時代のものとしては、楽寿館のホールと呼ばれる部屋、庭園の朝鮮灯籠(ちょうせんどうろう)、大理石の灯籠などが残されています。やがて世界旅行に出かけられるということで、楽寿園は昭和2年(1927)に売りに出されましたが、当時の三島町には一括購入する予算はありませんでした。

 三島の谷田
(やた)に住んでいた緒明圭造(おあきけいぞう)が東海の名園が分割されるのを惜しみ、一括購入し個人の庭園として管理していました。第2次世界大戦後はアメリカの進駐軍が楽寿館を利用していた時代もありました。

 昭和27年(1952)、庭園の一部を三島市が緒明家から買収し、また借地した一部を加えて三島市立公園「楽寿園」を開園しました。さらに、平成12年(2000)借地部分が、緒明家から三島市に寄贈されました。

→  三島溶岩流、楽寿館、小松宮彰仁親王

秋の楽寿園(紅葉と菊祭り)
紅葉の楽寿園 楽寿園の菊まつり

小浜池(こはまいけ)

 小浜池は、昭和の始めごろまでは三嶋大社例大祭のとき神職たちの「禊(みそぎ)」場(注1)となっていました。遷宮(せんぐう)(注2)のときの禊は大浜下りといって沼津の千本浜で行われるのに対し、小浜と呼ばれました。池はあまり大きくはないのですが、湧水の量が豊富なので、昔から源兵衛川、四ノ宮川、蓮沼川の水源として近郊の水田を潤(うるお)していました。一年中涸(か)れることはなく、せりの瀬、中の瀬、はやの瀬では、水遊びを楽しむ子供たちの歓声でにぎやかでした。

 昭和30年代後半ごろから上流での工業用水としての汲み上げなどの理由で湧水が減り、近年は5〜11月ごろの豊水期にも湧水が少なく、残念なことに池の底の溶岩が露出していることが多いです。平成10年(1998)には、降水量が多く、久し振りに昔の水量が戻りました。

(注1) 大切な神事などの前に川や海で身を洗い清めること。
(注2) 神社の本殿の造営修理に際し、神体を移すこと。

菰池(こもいけ)公園

菰池公園
菰池公園の写真

 この公園はJR三島駅南口から東へ約300m、白滝公園(水泉園)の北にあり、公園内の菰池の湧水は桜川の水源となっています。公園の名前の由来はいくつかありますが、一説には菰池付近は真菰(まこも)が多くはえた、のどかな湿地帯だったことから、この名が付いたといわれています。 

 『三島市誌』によると、幕末のころ、三嶋大社宮司(ぐうじ)の矢田部(やたべ)盛治(もりはる)がこの湿原を整えて水田にしたと記されています。大正以後(1910年代)、人家が密集し始め、昭和の初めの耕地整理で景色が変わり、第2次世界大戦後、住宅化が進みました。現在残っている湧水部分は菰池と鏡池ですが、鏡池の水は涸れてしまいました。 

 菰池は昭和58年(1983)、国土庁の指定によって実施された「水緑都市モデル地区整備事業」で回遊路、木橋、ベンチなどが整備され、池にはアブラハヤやオイカワなどが見られる、市民の憩(いこ)いの場となりました。


の苑緑地(みずのそのりょくち)

水の苑緑地の写真

 源兵衛川の中流に沿った親水(しんすい)公園です。数カ所の湧水や、竹やぶなどの自然を生かした公園です。川沿いに草木が多く、水と緑が調和し四季折々の美しさが楽しめます。小さな池もあり、コサギ、カワセミ、カモなどが見られます。

 かつてこの辺りは吉野水苑(よしのすいえん)と呼ばれ、湧水を利用して食用のコイを飼育していました。


白滝公園(しらたきこうえん)(水泉園(すいせんえん)

子供たちでにぎわう白滝公園
白滝公園
 白滝公園には大きなケヤキの木々があり、夏には心地よい木陰を作っています。足元には溶岩が露出し、あちこちに富士山からの地下水が湧き出し、少し離れた菰池(こもいけ)からの湧水と合流し、桜川になります。

 かつてここは三島の一大湧水池で、楽寿園と一体の溶岩の上にできた森林でした。しかし昭和9年(1934)JR
(注)三島駅への道路によって分断され孤立した水源地となりました。湧き出る水量が多く滝のように流れ落ちることから「白滝」と呼ばれたのが名前の由来です。市の中心地にあって季節を問わず人の集まる場所ですが、特に夏は涼を求めて多くの人々が(いこ)います。7月15日、16日には、近くの芝岡(しばおか)、浅間(せんげん)の両神社の祭りに合わせて水祭りがにぎやかに開かれ、灯籠(とうろう)流しなども行われています。


(注) 当時は国鉄と言った。
出典 『Welcome to ふじのくに 三島』



三島石(みしまいし)

三島石の石臼
三島石で作った石臼

 富士山から流出した玄武岩質(げんぶがんしつ)の溶岩で、三島石または小浜石(こはまいし)、小堰(こせぎ)石と呼ばれています。かつて石切場が、現在の文教町にある日本大学の北東隅付近と、JR三島駅の敷地になって消えた小浜山にあったそうです。

 三島石は、黒に近い灰色で、発泡孔
(はっぽうこう)が多いのですが、非常に固く、石臼や石垣、墓石などに利用されていました。  


出典 『石と生活展』、『三島いまむかし2』



めぐみの子

観光客のために水を汲むめぐみの子
めぐみの子の写真
白滝公園の南西の角の道路沿いに、三島商工会議所の工業青年クラブが、創立15周年記念事業として、会員の創意を生かして平成6年(1994)に設置した、かわいらしい男の子と女の子のからくり人形です。前に立つと、センサーが働き「三島のおいしい水をどうぞ」と言って「よいしょ」の掛け声と共に人形がポンプを動かします。そこから流れ出る富士山のおいしい雪解け水は観光客を楽しませています。この人形の衣装はボランティアの手作りで、季節ごとに着せ替えられます。




富士の白雪碑(しらゆきひ)

富士の白雪碑
富士の白雪碑
 
 白滝公園の南側にある碑は、「富士の白雪朝日に溶けて三島女臈衆(じょろしゅう)の化粧水」と書かれています。内容は農兵節の一節です。昔三島に豊富に流れていた富士山の雪解け水は、三島の女性を美しくみがきあげたと言われています。

 昭和7年(1932)、三島水明会(三島町議会議員で構成)によって建てられました。

 碑の岩質は、緑泥片岩(りょくでいへんがん)で、大きさは幅約91cm、厚さ約14cm、高さ約340cmです。書は農兵節を普及させた平井源太郎によるものです。



→  農兵節   
出典 三島市教育委員会説明板 
  



 長伏公園(ながぶせこうえん)

長伏公園の写真 市街地には小規模な公園が多いのですが、三島市の南西にあるこの公園は、狩野川の河川敷を含み、多くのグラウンドがあり、野球、サッカーなどの球技をすることができる比較的大きな公園です。遊具などもあり、子供たちの良い遊び場です。

 駐車場は約200台の駐車が可能で、みどり祭りをはじめ各種イベントの会場に利用されています。

 夏には3種類のプールが開かれ、子供たちの歓声でにぎわいます。


赤王山公園(あこうやまこうえん)

箱根西麓の赤王地先、パサディナタウンにあるこの公園は、雑木林の中に遊歩道が整備され、気軽に散策など自然に親しむことができる公園です。

また、林のほか平地部分には気持ちの良い小川が流れています。

赤王山公園の写真



子供の森公園

子供の森の写真 
 三ッ谷にあるこの公園は、散策やピクニックなど、家族で楽しむことができる公園の1つです。自然に親しむことができる風致(自然の景観をそのまま生かした)公園です。森には野鳥が多く、バードウォッチングを楽しむことができます。








やまばと公園

 佐野見晴台にあるやまばと公園は、広々とした芝生がある公園です。ここからは富士山の頂上から裾野までを眺望(ちょうぼう)できる、富士山の絶景ポイントの1つになっています。初夏には、芝生の上でのピクニックや昼寝が最高です。


かも公園

 加茂にあるこの公園は団地の造成と同時に作られた公園です。公園内のトイレは子供会のボランティアにより、清掃されています。


末広山(すえひろやま)

末広山の写真 桜の名所として知られている末広山の公園は、三島市北部の高台に位置し、富士山など、その展望の素晴らしさに訪れる人は後を絶ちません。

 東には箱根山麓、南には三島から田方平野と天城連山、西には陽光きらめく駿河湾に大瀬崎、北に目をやれば、愛鷹山(あしたかやま)を抱いて天にそびえる富士山が優雅に裾を引き、裾野、御殿場方面が一望のもととなります。

 なだらかな丘の頂には馬頭観音(ばとうかんのん)が祀(まつ)られ、軍馬慰霊碑もあります。農耕馬や軍馬の慰霊のため、毎年4月10日には祭典が今も行われています。農耕馬が姿を消す以前の昭和39年(1964)ごろまでは草競馬も催されて、露天商が多数並ぶほどに祭りも盛大でした。古くからここは地域住民の憩いの場だったと言えます。

 
佐野、徳倉、幸原の各地区代表者からなる三字(さんあざ)委員会が、長年にわたり管理清掃などをしています。また、北上中学校生もボランティアで清掃を行っています。


→  富士山のビューポイント


上岩崎公園(かみいわさきこうえん)

 上岩崎公園の写真

文教町の大場川沿いに、上岩崎公園があります。公園内には桜の木が数多く植えられていて、春はお花見が楽しめます。夏は、公園内にある上岩崎プールが子供たちの歓声でいっぱいになります。

 平成10年(1998)には、駐車場も整備され、公園内の道も美しい石畳になりました。ミニアスレチックや池があり、小さい子供を連れた家族に人気があります。

 上岩崎公園から、大場川を渡って壱町田方面へ抜けるために橋がかけられました。市制50周年を記念して完成した「あゆどめ橋」です。

 あゆどめ橋の名は、この橋から100mほど上流にある鮎返しの滝(別名、鮎止めの滝)に由来します。

 市街地にこのような自然が残されているのは素晴らしいことです。

→  鮎返しの滝


中郷温水池(なかざとおんすいち)

中郷温水池の写真 昭和28年(1953)に国、県の事業として建設された中郷温水池は、稲作には冷たすぎる湧き水を稲作用水として利用するために温める池です。楽寿園の小浜池に湧き出した水は、全長約1.5kmの源兵衛川を流れ温水池に注ぎます。太陽熱によって温められた水は、池の南に広がる中郷地区の田畑へ4筋の用水路によって給水されます。

 平成8年(1996)から平成10年(1998)にかけて、池は再整備されました。池には中島があり、周囲には木が植えられ、良く整備された気持ちの良い散策コースとなっています。自然の景観を生かすことを優先し、池の周囲には柵はありません。冬にはカモ類が飛来し、身近な野鳥観察の場となります。また、南端は、逆さ富士が美しく映る絶好の撮影ポイントになっています。

→  富士山のビューポイント



沢地の里山(さわじのさとやま)


沢地の里山風景 沢地の里山風景2

 なくなりつつある日本の原風景の里山が、龍澤寺の周辺の沢地地区に残っています。

 平成元年(1989)に、沢地工業団地ができて以来、交通量が増え、以前のような静かなたたずまいはなくなりましたが、寒川鼠骨
(さむかわそこつ)(注)が紀行文『美哉(びなるかな)山林』の中で書き記している昭和の初めころの沢地の自然が、まだまだ手つかずのまま残っています。

 下流で大場川と合流する沢地川が、山裾を削るように流れています。沢地川には、サワガニやカワセミが生息しています。6月には、数は少ないのですが、自然発生したゲンジボタルが川岸を飛び交います。

 沢地川に沿って南東側にある山は、はなそそ山といって早春には美しい芽吹きを見せ、夏にはクワガタなども生息しています。秋にはドングリやクリがたくさん落ちます。往時に植栽したクヌギ、コナラの広葉樹の多い雑木林と、その裾に点在する棚田風
(たなだふう)の水田は、まさしく里山の風景です。

 アマガエルの鳴き声、夏のヒグラシ、秋の虫たちのハーモニー、生命を育む川と水田が共存する里山は、守りたい私たちの大切な財産です。

(注)明治8年(1875)松山市生まれ。名は陽光(あきみつ)。松山藩士寒川朝陽(ともあき)の第3子。新聞「日本」に入社後同郷にして同僚の正岡子規の門下生として俳句、写生文を試み、昭和4年(1929)に現代日本文学全集に『美哉山林』を記す。



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