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滝の地図


大滝 (鮎返(あゆがえ)しの滝



 文教町の上岩崎(かみいわさき)公園(こうえん)の横を流れる大場川は、市街地でありながら滝を眺(なが)められる場所として知られています。

 この滝は、黄瀬川にある鮎壷の滝と同じ成り立ちで、今から約1万4千年前、富士山が噴火したときに流れ出した溶岩が、この付近で固結したためにできた溶岩崖と、その後生じた大場川の流れによってできたものです。

 溶岩崖をよく見ると、厚さの異なる溶岩層が重なっていて、この時期の噴火活動の様子の一部を知ることができます。

 
また、付近には大場川がつくった4段の河岸段丘(かがんだんきゅう)の地形が見られ、3段、2段の下流域と比べると、地形形成の過程を知る資料となります。
滝の西側(幸原側)の崖(がけ)は三島溶岩であるのに対し、東側(壱町田側)には、箱根火山の噴出物の層が見られます。

 地元ではこの滝を「鮎返しの滝」「鮎止めの滝」とも呼んでいます。滝の高さは3〜4mあり、岩間をぬってゴーゴーと水が落ちています。この川の水が今より清く澄んでいたころ、この滝を登りきれないアユが群がっているのを見て、この辺りの人たちが名付けたものと思われます。

 
川が子供たちの水遊びの場であったころ、この滝の下に、子供たちがアブチと呼んでいた泳ぎ場がありました。アブチは大淵(おおぶち)が訛(なま)った滝壷の名と思われます。

 公園側から見ると1段しか見えませんが,このすぐ上流部にも滝があり、実際は2段の滝となっています。

大滝
大滝の写真

  大場川
出典 『三島のみずべ五十選』p.57、『三島いまむかし2』p.46


(よみがえ)、清流(せいりゅう)

 平成12年(2000)の晩夏、伊豆佐野の勝俣巌さん宅を訪問しました。この家は、明治時代の有名な俳人、瀧乃本連水(たきのもとれんすいの生家で、気さくな老夫婦から、現在息子さんが製造している青汁ならぬ赤汁(しその葉のジュース)をいただきながら、いろいろな昔話を聞くことができました。

 また勝俣家の裏手には、平成
11年(1999)の市民カレンダーで紹介された雄滝(おだき)が流れ落ちています。その姿が蓑(みの)に似ているので、蓑毛(みのけ)の滝とも呼ばれています。しかし、上流から汚物が流れ込み、悪臭がしていて、鑑賞に堪(た)えません。夏はホタルが飛び交い、冬は凍った滝の氷を子供の熱さましに使ったというこの滝の清流を、再び蘇(よみがえ)らせることはできないのでしょうか。


蜘蛛が淵(くもがふち)


蜘蛛が淵の写真
 沢地川の上流にある2段の滝が、蜘蛛が淵です。上段の滝壷には不動尊(ふどうそん)の石像が祀(まつ)られ、下段の水のよどみは淵と呼ばれるにふさわしい神秘性とすご味をそなえています。

 淵の前は、少し広くなっており、昭和の初めごろまでは、そこが村の青年の雨乞
(あまご)いや、相撲(すもう)などのレクリエーションの場として使われていました。これも、清流と緑の木々という大自然の中に蜘蛛が淵があるからなのでしょう。

出典 『三島のみずべ五十選』


蜘蛛が淵(くもがふち)の伝説

蜘蛛が淵の伝説イラスト
 むかし、むかし、大徳院の坊さんが釣りざおをかつぎ、ぞうりをはいて、沢地川に釣りに来ました。天気もよく、魚もたくさん釣れたので、ビクはたちまちいっぱいになりました。

 ふと足元を見ると、大きな蜘蛛が滝の淵から、坊さんのぞうりにせっせと糸をかけています。蜘蛛がどんどん糸をかけているので、坊さんは気味が悪くなりました。ひょいと、ぞうりをかたわらの
(かし)の木にかけたところ、まもなく雷(かみなり)のような大きな音と共に、木は淵の中に引き込まれてしまったそうです。

 坊さんは、びっくり
仰天(ぎょうてん)。あわてて逃げ帰り、途中でビクの中をのぞくと、釣れたはずの魚がみんな笹の葉に変わっていたということです。

 それからは、この淵を、蜘蛛が淵と呼ぶようになったそうです。

出典 『続 三島の昔話』p.36


愛染の滝(あいぜんのたき)

愛染の滝と溶岩塚

 愛染の滝と溶岩塚(市指定文化財、天然記念物)

 かつてこの地にあった愛染院は、真言宗高野山派(しんごんしゅうこうやさんは)に属し、三嶋大社の別当寺院(べっとうじいん)(注1)で10数カ所の末寺を持つ、伊豆随一の大寺院であったと言われています。鎌倉二代将軍源頼家の親書「心経」も所有(現在は三嶋大社所有)していました。この愛染院が跡形もなく消滅してしまったのは、明治新政府が明治元年(1868)神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を発令したからです。この分離令は明治新政府が神道を優位に考え、それまでの仏教に対する政策を変えたものです。

 現在残っている溶岩塚は、約1万4千年前に、新富士の噴火活動により流下して、末端部の溶岩が温度が下がって固結しようとしているとき、後部から押されて盛りあがって塚になったものです。この溶岩には、数多く大小の穴が見られますが、冷えるときに溶岩中に含まれていた水蒸気などの気体成分が抜け出た跡です。この溶岩塚を取り囲むようにケヤキやムクノキの大木が生い茂り、木の根が溶岩に絡
(から)み付くように地表に露出しています。この溶岩塚は、三島市指定文化財(天然記念物)に指定されています。

 三島市は昭和54年(1979)に「水上
(みずかみ)プロムナード事業」(注2)を計画し、昭和59年度に「国土庁水緑都市モデル地区整備事業計画」として、この愛染院跡の溶岩塚、菰池公園、白滝公園、桜川歩道の整備を実施しました。その一環としてこの溶岩塚とケヤキの木立ちを生かし、高さ4mの人工の滝を作りました。また平成4年(1992)には、水が南側に落ちる滝も完成しました。
 

(注1)神仏混淆(こんこう)説に基づいて神社に設けられた神宮寺
(注2)JR三島駅から、三嶋大社の西に至る水上道路を一体とした、水の都として水を中心にした整備をする事業


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