並河五ー(なみかわ ごいち)

並河五一の著作
並河五一は三島に塾を創設した人物です。
寛文8年(1668)、山城国の富農の家に生まれました。
若くして伊藤仁斎に学び、一流の学者として名声を高めた五一は、江戸で私塾を開き多くの門人を集めて、兵法や和歌、文武の両面に渡る幅広い学問を教授しています。
五一が三島明神の神主の誘いを受け、三島へ来たのは57歳の時。富士山のよく見える場所に「仰止館」という漢学塾を開き土地の子弟の教育に務めました。
この頃の五一には「五畿内志」の編纂という大きな目標がありました。
幕命を受けた五一は、門人らの協力のもとに五畿内を歴遊し、約6年の歳月を費やし「日本與地通志」中、畿内の部61巻を校了しました。(写真は並河五一の著作)

秋山富南(あきやま ふなん)

秋山富南著『豆南行記』
秋山富南が編纂した『豆州志稿』『南方海島志』は江戸時代に編纂された伊豆の代表的な地誌として知られ、今でも多くの人々に愛読、活用されています。
富南は享保8年(1723)の生まれ。
多感な青年期の富南に、当時この地方で名声高かった2人の人物が大きな影響を与えています。その一人、並河五一は「五畿内志」等の編纂者で「仰止館」という漢学塾を開いていました。
もう一人は、龍澤寺を開いた白隠禅師です。禅師との出会いは、富南の学問に一層の深みを与えました。
代官を通じて幕府に願い出た州誌編纂は聞き入れられ、約12年の歳月をかけて『伊豆勝覧』『南方海島志』を出版。『豆州志稿』十三巻を完成させました。(写真は秋山富南著『豆南行記』)

福井雪水(ふくい せっすい)

福井雪水を偲ぶ文集
福井雪水は三島の教育先駆者です。
文化11年(1814)7月、三島宿・長谷に生まれました。
江戸で高名な儒学者に学び、25歳の折に三島で漢学塾「千之塾」を開きました。
学者としての雪水はもの静かな人物。しかしひとたび講義ともなれば、実に細かくかつ明快に学問を論じ、その真撃な姿勢に塾生は魅了されたといいます。
また、韮山代官の招きに応じで講ずることもしばしばで、講義を聞こうと集まった多くの人々が部屋の外まであふれたと伝えられています。
「千之塾」からは、明治期の三島を支える多くの人々が育っています。
その一方、雪水は漢詩をたしなみ、自ら「松泉吟社」を創設、三島の文化興隆にも貢献しています。(写真は雪水について書かれた『雪翁遺草』)

瀧之本連水(たきのもとのれんすい)

連水の作品

連水の和歌
幕末から明治期の地方俳諧を支えた瀧之本連水は、天保3年(1832)の生まれ。
生家は代々伊豆佐野の名主を務める家柄でした。
連水は26歳の若さで家督を継ぎ、家業に精を出すかたわら、後に俳詣での基礎となる俳句の修業を積み、明治元年には師匠の連山から「俳関」の号を授かりました。
明治15年、地方俳譜の指導者として目覚めた連水は、自宅に「連柿堂」を開き、多くの門人を集めます。
明治26年には生涯の結晶とも言える「雲霧集」を出版。明治31年の連水没後、自宅前には門人たちにより石碑が建てられました。
碑面には、終生富士山を愛し続けた連水の秀句「富士のふもと廻り尽くさで老いにけり」が刻まれています。(写真は連水の作品)

世古六太夫(せこ ろくだゆう)

世古六太夫 肖像画
世古六太夫は三島を危機から救った最後の本陣主です。
天保9年(1838)、伊豆国君澤郡川原ヶ谷の旧家、栗原家に生まれました。
14歳の時、世古家の養子に迎えられ、本陣主として問屋役として、精力的に仕事をこなしていました。
しかし、幕末維新の時代、六太夫は人生最大の山場を迎えます。
明治元年、官軍と旧幕府勢力が三島宿をはさんで対決した際、六太夫は三島明神の神官らと両者の調停をはかり、一触即発の危機から三島を救ったのでした。
明治時代、六太夫は、一転、実業家として、また、三島の教育を発展させる立役者としてめざましい活躍をみせます。
明治5年に設立した私立学校に続いて、12年には三島の小学校の前進となる新校舎設立に際し、物心両面に及ぶ尽力を惜しまなかったといいます。
また、自らは通信運輸事業を展開して、三島の郵便局の礎を築きました。(写真は世古六太夫 肖像画)

箕田寿平(みたじゅへい)

箕田寿平筆
箕田寿平は天保11年(1840)の生まれ。近代三島の俳譜の師と仰がれました。
名主の家に生まれた寿平は、経済的な環境にも恵まれて、15歳の年には三島の高名な学者・福井雪水の千之塾に入門。学問に励み、雪水門下の高弟と呼ばれるまでに登りつめます。
18歳の時には江戸へ出て、三島出身で江戸俳譜の重鎮「孤山堂卓郎」に俳譜を学びます。
江戸末期、師匠の死後、その遺志を継いで、俳譜の道に邁進します。
明治17年には「鳴鶴社」を興し、明治30年には「俳譜研究会」を主催するなど、活動は堰を切ったように続き、名は天下に知れ渡ります。(写真は箕田寿平筆)