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三島の作物

ダイコン

大根干し
大根干し風景の写真
 三島において古くから栽培されていたダイコンですが、昭和の初め(1926〜)のころ、平井源太郎が「農兵節」とともに箱根のダイコンを大々的に世に売り出しました。今では、静岡県下でも有数のダイコンの産地になっています。特に箱根西麓は、火山灰土が積もってできた土地で、根を深くはるダイコンの栽培に適した土地であるために、おいしいダイコンができることで有名です。

 青果用、加工用(たくあん漬け材料)として、また加工されたたくあん漬けとして京浜方面や観光地伊豆の旅館や民宿、みやげ物品店に出荷されています。特にたくあん漬けは、産地の名前が付けられ、「三島の浅漬けたくあん」として市場の人気も高いです。しかし最近では、「根もの」であるダイコンは調理に時間がかかるために人気がなくなり、生産量は減ってきています。


→ 平井源太郎


ニンジン

 ニンジンもダイコンと同様に「根もの」とよばれ、排水のよい軽い火山灰土の土地である箱根西麓(三島市三ツ谷、笹原地区)にはとても適しているため栽培が盛んです。また土質(どしつ)も良く作土も深いため、おいしいニンジンがとれます。昔は肉質がよくニンジン特有の香りの強い「信州鮮紅(せんこう)大長(おおなが)ニンジン」という品種が栽培されていましたが、栽培しにくいことや、消費の減少から「黒田五寸」という短根ニンジンに品種が変化してきました。この品種は生でも煮物にも適しています。出荷先は半分が名古屋方面で、残りは静岡県東部地城で消費されます。


甘藷(かんしょ)(サツマイモ)

北上甘藷祭り
北上甘藷祭り
 昭和の初めころ(1926〜)甘藷の全国一の消費地は、大阪、京都及びその周辺の都市でした。各地で生産された甘藷は大阪、京都の市場に集積され、その中で味が一番よいのが山北印(北上農協の登録商標(とうろくしょうひょう))の三島甘藷で、その好評は日本一であり、一時期日本の甘藷の相場は三島の山北印で決まると言われていました。したがって、市場での相場は必ず最高価格であって、各地からの甘藷の価格はそれによっ次下っていったそうです。

 日中戦争(1937)が勃発し、第2次世界大戦と移行した戦時中はもちろん、特に終戦後(1945〜)の食糧難時代には、甘藷は主食の代用として重要視され、その需要は生産が追いつかないほどになりました。消費の増大は当然質より量の要求となり、生産者は増産のため、品種の改良や栽培技術の向上をはかりました。このころ北上地区農家の換金
(かんきん)作物の第一となっていた甘藷の作付けは、各家の耕作反別(たんべつ)の約60%を占めていました。

 その後急速な復興
(ふっこう)、特に朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)(1950)以降の経済の進展で、生活必需品や食糧の充足は、10年を経ずして一変しました。時代の流れにあって主食代用の甘藷は、その地位を失い、味では日本一をほこった三島山北印の甘藷の名声も、今は昔話となってはかなく消え去ろうとしています。

出典 『北上特産甘藷さつまいも』


ジャガイモ

ジャガイモの選別 箱根西麓のジャガイモは、全国の有名ホテルや料理店で使われていることからも品質の高さが認められています。箱根西麓で本格的なジャガイモの生産が始まったのは、昭和20年(1945)ごろからです。初めは山田地区で主にコロッケ用として使われる「男爵(だんしゃく)」の栽培が始まり、それが他の畑作地帯にも広がりました。その後昭和45年(1970)ごろには、煮物用などに使われる市場性の高い「メー・クイン」が栽培され、急激に栽培面積は増えて現在のような産地に発展しました。

 この地域は排水がよく、土質が軟らかな火山灰土に覆われていて、傾斜地で作土が深いために根もの類に向いています。そして、土壌
(どじょう)の性質がよく「メー・クイン」によく合っているために、高品質なジャガイモが生産できます。この地域のジャガイモは、形がよく肌がきれいでおいしいと有名で、県内はもちろん東京、名古屋、京都、大阪などにも出荷され、特に関西方面の注文は多いようです。澱粉(でんぷん)加工用のジャガイモは主に北海道で生産されていますが、この地域のジャガイモは加工用になるものはほとんどないそうです。

出典 『東部地域の特産物とふるさとの味』、高沢辰美さん(三ツ谷新田)談


伊豆イチゴの発祥(はっしょう)

伊豆イチゴ発祥の碑 近年、田方平野一帯に栽培され市場を賑(にぎ)わしている「伊豆イチゴ」の発祥(はっしょう)の地は三島市玉川で、それをたたえる大きな石碑が中郷温水池のほとりに建てられています。

 昭和6年(1931)に玉川に住んでいた堀井政吉が、イチゴ苗を仕入れて試作したのが始まりです。
昭和初期の農業恐慌(きょうこう)の打開策としてイチゴ栽培を水田裏作に織り込むことを隣人に勧めたものが、中郷を中心に他町村に広がりイチゴの出荷は、玉川に集められて行われたそうです。

出典 『伊豆史談』p.43



フルーツトマト

フルーツトマト栽培風景 フルーツトマトは、まんまるで直径3〜4cmのとても甘味の強いトマトの種類です。三島では数軒の農家がフルーツトマトを作っています。普通のトマトは、露地栽培ですが、連作障害を起こしてしまうために同じ土地に毎年続けて栽培することことができません。農地が広かった昔は、他の土地に作ることもできましたが、現在では住宅が増えてきたりしてそれが難しくなったため、水耕栽培(すいこうさいばい)という新しい栽培を始めました。

 フルーツトマトは、温室(ビニールハウスやガラスハウス)の中で栽培されます。甘いトマトを作るために水をなるべく与えないようにします。そして、高濃度の水性の肥料をコンピューター管理の下で調整しながら与えていきます。フルーツトマトは普通のものよりも小ぶりになってしまいますが、1本の幹には数百個のトマトが実ります。そしてフルーツのように甘いトマトになります。普通のものよりは少し価格は高めですが、人気も高く、東京、大阪方面にも出荷しています。水耕栽培は、水がおいしい三島に適した栽培方法かもしれません。現在では「フルーツトマト狩り」も行われています。


加藤早苗さん(谷田) 談


市民農園

市民農園での野菜作り

 平成12年(2000)10月、三島市と三島函南農業共同組合が、市民農園を設立しました。この農園は三島市民の要望によって実現した企画で、土を耕し野菜を育て、収穫(しゅうかく)する喜びの中に生活のゆとりや安らぎを実感すると共に、家族や仲間とのふれあいの場を目的とした農園です

 農園は1区画30uで、玉沢に28区画、徳倉に27区画用意されています。いずれも地主の協力を得て貸し出すことになっていて、三島市民は1区画1年間1万円で、1人1区画のみ借りることができます。

 初めて野菜などを作る人のために、農協職員や地元の農家が土作りから指導しています。三島市は首都圏から移り住む市民が多いため、農業体験が人気を集めています。


野菜の引き売り・置き売

引き売り風景の写真 手無し地蔵がある中村の婦人たちが姉さんかぶりで、畑で採れた野菜を満載(まんさい)したリヤカーを引いて、旧下田街道を三嶋大社方面に上がってきます。新鮮な野菜を求めて通りすがりに車を止め買い求める人もありますが、それぞれお得意さんがいて、すぐに売り切れになります。

 また、旧錦田、北上、中郷などで農家の軒先や畑に小屋を作り、野菜や花を売っているところが見られます。ほとんどが無人販売の大らかな商売です。


         

朝市(あさいち)(毎度あり市)

朝市のようす 毎週土曜日の午前中、本町の静岡銀行の駐車場では三島の農家の方などによる「毎度あり市」という名前の朝市があります。三島やその周辺の地域で取れた新鮮な野菜や果物、花、またそれらを使った漬物や干物などの加工品などが並んでいます。この日を楽しみにしている人も多いようで大変にぎわっています。

 このような販売方法では直接、生産者と消費者が市場を通さずに「顔の見える関係」で売買
(ばいばい)することができます。キャベツを買ったときに「葉っぱが虫に食われていて嫌だ」と言ってきたおばあさんに「虫に食われているのは農薬をあまり使っていない証拠なんだよ」と言うと喜んで買っていってくれたという話を、そこで野菜を売っていた沢井和代さん(三ツ谷)が教えてくれました。地元、三島で取れた新鮮でおいしいものを安心して食べられる、というのが人気の秘密のようです


三島青果株式会社

 
青果市場の様子青果市場の様子

 昭和6年(1931)、当時六反田2丁目(現、緑町)に創立し、昭和8年(1933)に六反田5丁目(現、泉町)の現在位置に移転した青果市場が、第2次世界大戦を経て、昭和24年(1949)、三島青果株式会社と改名しました。

 昭和47年(1972)、鉄骨2階建で1階を売場(2,870u)とし、2階を150台収容できる大駐車場(2,645u)、他に付属エレベーター南北2基を設置するなど、近代的設備を整備し、平成12年(2000)現在に至っています。

 かつては、箱根西麓、愛鷹山麓、田方平野から農作物を一手に引き受け、生産市場として活気を呈していました。しかし、近年の都市化による人口の増加と農地の宅地化などによる地場作物の減少で、現在は純消費市場となり、商圏(しょうけん)は伊豆一円、神奈川県西部、山梨県南部として、その消費人口は約40万人といわれています。

 平成12年(2000)現在、役員7人、職員34人と仲買
(なかがい)組合員約250人を抱え、農作物一切とその加工物、花卉(かき)を取扱い、平成3年(1991)には60億円の売り上げを示しましたが、最近は47〜48億円を前後しています。バブルの時代、マスクメロン1箱(6個入り)が3万円で売れたものが、今では1万5千円でも、なかなか買い手がつかないそうです。低成長下で厳しい市場状況が伝わってきます。

出典 『三島青果六十年のあゆみ』


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