菰池

菰池
菰池は宿場の北にある一大湧水池です。菰池に湧き出した水は白滝の湧水池で、さらに水量を増して、祓所川と御殿川に清流を落としていました。
昔、水量が豊富だった時代には、池の周囲に水田があり、その田の一枚一枚の水面に月の影を映していたといわれています。

白滝

白滝
現在の楽寿園一帯は、白滝と呼ばれる湧水の豊かな場所でした。
ここを源流として、御殿川や祓所川が南に流れ下っています。
白滝は、宿場の生活用水の水源地であるために、水神が祀られたり、観音堂が設けられたりしました。

人足部屋

人足部屋
東海道の各宿場では、行き交う公用の伝馬継ぎ立てのために、それぞれ百人百頭の人足と馬が必要とされました。
三島宿の人足部屋は問屋場裏にあり、五間・四間半ほどの広さの部屋には、雲助と言われた部屋人足たちが常駐していていました。

御殿川

御殿川
御殿川は問屋場跡や旧御殿の脇を南に流れる清流です。その源流は宿場北の白滝の湧水池にあります。
祓所川から分流してドンドンの堰を落ちた流れは、町中の生活用水として、さらに下流に下ると水田用水に利用されていました。

本陣

本陣
本陣は文字どおり、将軍などが陣を張って留まる所でしたが、近世、東海道の整備により各宿場に設けられ、江戸と国元を往復する大名や公家の宿泊施設として発達しました。
三島宿には、ほぼ中央に樋口、世古という二軒の本陣が大きな屋敷を構え、大名たちの往来の御用に応えてきました。
間口は十九間余りという広さで、普通の旅籠の数倍の規模を誇っていました。
三島宿に二軒あった本陣、樋口家と世古家の門は、現在、芝本町にある円妙寺と長円寺の山門として残っています。

御殿跡

御殿跡
江戸幕府成立後、東海道の各宿場は次第に駅としての機能を充実しつつありましたが、将軍宿泊用の本陣までは整備されていない宿場もありました。
三島宿では、三代将軍家光のころ御殿が創設され、しばらくの間はそこが将軍宿泊用に使用されていましたが、後に本陣が整備され、御殿は廃されました。
現在、御殿神社付近に昔の面影が残っています。

愛染院

愛染院
楊林山薬師院は真言宗の寺です。本寺は三嶋大社の別当寺院であった愛染院で、明治初年に愛染院が廃寺になった後、薬師院として継承されました。
またその時、虎住山観法寺、楊林山竹林寺も合併、現在、寺が護持している不動妙王は三嶋大社護摩堂の本尊だったと伝えられています。

裏町

裏町
近世の東海道北側に並行した道沿いの町並みを、通称「裏町」と呼んでいました。
ここは医師や職人、ごぜなどのさまざまな職種の人々が生活していたところ。
裏町は祓所神社、通称「浦島さん」に通じることから、「浦島」の浦の字をとり、「浦町」とも呼ばれていました。

問屋場

問屋場
問屋場
問屋場は公用人馬の継ぎ立てという役割も担っており、道中奉行の支配を受け、宿駅を管轄していました。
その長には問屋役が配され、補佐役の年寄りのほか、帳付、馬差など、数名の宿の有力者が任にあたっていました。

脇本陣

脇本陣は本陣を補佐する宿泊施設で、どこの宿場にもありました。 三島宿には小中島の「銭屋」、「大和屋」と、大中島の「綿屋」という三軒の脇本陣がありました。 脇本陣

本陣の門

本陣の門
三島宿に二件合った本陣、樋口家と世古家の門は、現在芝本町にある円明寺と長円寺の山門として残っています。

鷹部屋

鷹部屋
三島宿には将軍の鷹狩りのための「鷹部屋」がありました。その場所は現在の芝本町で、長円寺の西側付近にあたります。
鷹部屋には御鷹役人や鷹匠が常駐し、九羽の鷹が飼育されていたと記録に残されています。
貞享年間には鷹部屋は廃止となり、近年まで町名として名残をとどめていました。

四ノ宮川

四ノ宮川
四ノ宮川は、現在の楽寿園・小浜池を源流とする河川です。川の名は、小浜池の中の島に鎮座する四ノ宮広瀬神社に由来しています。
この川は江戸時代には豊かな清流で、宿場の人々の生活用水になっていましたが、現在では川の部分が暗渠になってしまい、かつての流れは見えなくなりました。

芭蕉の句碑

芭蕉の句碑
広小路にある君沢山蓮馨寺の門前には、聖徳太子の作と伝えられる日限地蔵尊の標柱が立っています。
蓮馨寺の縁日は八月二十三日、この日は遠くからも参拝客が願をかけに訪れ、多くの人々でにぎわいます。
境内には芭蕉の句碑「いざともに穂麦くらはん草枕」が立っています。

火避け土手

火避け土手
三島は冬になると西風が強く吹くことから、ひとたび宿場西側の民家から火の手が上がると、瞬く間に大火事の災難をまねくことになりました。
広小路付近にあった火避けの土手は、こうした火災から宿場の中心部への延焼を防ぐための施設でした。
三島宿を描写した絵図などには土手が描かれていますが、現在では面影すら残っていません。

境川

境川
三島宿は東の大場川と西の境川の二つの河川に囲まれた町です。
この二つの河川はかつては同じ流れだったという説もあります。
現在は玉川池などに湧く水を水源として南に流れ下り、狩野川に合流しています。
境川は小さな河川ですが、昔は駿河と伊豆の両国を分けた国境の川。清流にはカニやエビ、ウナギなどの豊富で、川漁が盛んに行われていました。

小浜山の刑場

小浜山の刑場
小浜山の刑場は、韮山代官所で罰せられた罪人の処刑場で、三島宿の北のはずれにありました。
現在では新幹線駅や施設ができたので、かつて首切りの松と呼ばれていた刑場跡の名残は消えてしまいましたが、罪人たちを供養した墓や碑は今も線路脇に残っています。
さらし首場は三島宿の東の端、新町橋のたもとにありました。そのため、難所の箱根を越えて三島宿へたどり着いた旅人たちは、「ほっ」と一息つく暇もなく、野ざらしの罪人の首を見ることになりました。
これは一種の脅かしなのですが、宿の平和を維持する意味が込められていたのでしょう。しかし、そんな恐ろしい光景も常にあったわけではありません。

白滝観音堂

白滝観音堂
現在の白滝公園付近に、尼僧により白滝寺が建てられました。 元禄のころ観音堂となり清水寺と称しましたが、寺はいつのころか廃寺となったと『豆州志稿』に載っています。
この堂も明治の初めに焼失し、観音様は常林寺に移されました。
観音堂のかたわらの大ケヤキの根元に小浜石の「志らたき観世音菩薩」碑が立っています。この碑も常林寺に移されていましたが、昭和25年(1950)再びゆかりの現在地に新しく観音堂を建て、おまつりすることになりました。

源兵衛川

源兵衛川
源兵衛川の源流は、現在の楽寿園・小浜池にあり、かつては水量も多く、かなりの急流であったといわれています。
源兵衛川は、東海道の源兵衛川石橋の下を流れ、三つ石神社脇を経て、さらに下流で水田用水に利用されていましたが、あまりにも水温が低いことから近年には温水池が設けられて水を温めていました。

時の鐘

時の鐘
広小路の火避け土手付近には時の鐘があり、鐘の音で宿場内に時を知らせていました。 当時は時計のない時代でしたから、明け暮れの時を打つ鐘は、生活のリズムを作る大切な役割を果たしていました。

国分寺跡

国分寺
現在の国分寺は、昭和30年まで日蓮宗蓮行寺と呼ばれていた寺院です。 名前の変更は、奈良時代の国分寺の東大門、中門、七重の塔跡が寺の敷地一帯を占めていることによるもので、本堂裏の墓地にある七重の塔の礎石は、文化財に指定されています。

千貫樋

千貫樋
千貫樋は、現在の楽寿園、小浜池を水源として流れる小浜用水が西の境川を越えて、隣の清水町に渡る所に架けられた水樋です。 創設は戦国時代といわれ、水田の水不足に難儀していた駿河の田を潤すために造られました。 その費用が千貫であったからとか、千貫の米の収穫量があったからなど、樋の名称由来にはさまざまな説があります。

木町観音堂

木町観音堂
広小路駅から新道を西へ向かい300mほど行った交差点の南角に、木町観音堂があります。 このお堂には救世観音がまつられ、境内に西国三十三所観音がまつられています。 また境内には、言成地蔵尊の祠があります。言成地蔵の小菊の秘話は、東本町(旧二日町)の地蔵堂で語り継がれています。 この話の中で手打ちにあった小菊の母が、この木町の出身という縁で、その悲しみの深さから冥福を祈るために、小菊の死から25年後の正徳2年(1712)、もう一つの地蔵が作られ、地元の町の人たちにより建てたものといわれます。