(第98号) ~東海道の旅の友だった~ 東海道分間絵図 (平成7年9月1日号)

東海道分間絵図
 ちょっと太めだけど、旅の荷物には適当な大きさの絵図があります。「東海道分間絵図全」は、東海道の旅人の便を考えて作られた道案内であり、街道の名所旧跡案内の決定版として、改訂され売り出されました。巻頭の凡例には、「遠近道印作の分間絵図、年を経て道の付替りたる所多し故に、今改正増補し、且懐中の小折りとなし旅行の一助とす」と記し、便利になったことを主張しています。

 江戸時代も後半になると、伊勢参宮などの宮参りを目的とした庶民の旅が大流行します。特に多くの人口を抱えた江戸方面から上方方面への旅人は多く、東海道往来は盛況をきわめます。こうなると旅人の楽しみは道中の史跡の見物や名物を求めることに関心が向きます。そこで登場してきたのが「旅案内」や「街道絵図」の類でした。現在書店で数多く売り出されている旅のガイド書のはしりと言えるでしょう。

 分間絵図の三島の部分を眺めてみましょう。

 三島明神(現在の三嶋大社)を絵図の中央にして街道両側に家並みが描かれています。街道には馬に乗った侍らしい旅人と馬方、徒歩の一人旅らしい人の姿も見えます。明神前には茶屋と記されています。本絵図の便利な点は、描かれた風景よりも絵の周辺に書き込まれている宿場名物案内の記述でしょう。

 初音付近(現在の箱根登り口松並木付近)には「はつねの御座松見事也」とあります。かつて、初音原には松の大木があったと伝えられていますが、この図はその伝承を見事に実証しているものです。少し、三島方面に下がると川があり、橋が架けられていることが分かります。

 「かはらかえはし」と読めます。現在、山田川に架けられている橋を指します。さらに下って「かん川はし」が見えます。現在、大場川に架かる新町橋のことです。絵図上部には三島明神の由来と社領五百三十石の記述があります。
 旅人達はこの絵図を見ながら、「箱根を下り終えたら、三島明神に参拝しよう」と先を急いだことでしょう。
(広報みしま 平成7年9月1日号掲載記事)