(第13号) 天平の歴史を語る 国分寺瓦 (昭和63年7月1日号)

 伊豆国分寺跡から出土した鐙瓦の八葉の蓮弁文様に、私たちは、奈良時代に、そこにそぴえていたであろう「国の華」国分寺の美しく雄大な伽藍の姿を想像します。
 全国各地の国分寺の創建は、天平9年(737)3月、「国ごとに釈迦三尊像をつくり、大般若経一部をうつせ」という詔に始まりました。続いて天平13年(741)、聖武天皇みずから金字金光明最勝王経をうつし、諸国の七重塔一基ごとに、一部を置かせることにしました。この時、「国ごとに僧寺と尼寺を置き、僧寺には封五十戸、水田十町、僧二十人、尼寺には水田十町、尼二十人を置く」ということも決められ、事実上の創建のつち音が諸国に響き始めたのです。
 さて、伊豆国分寺の建設も、以上のような中央国家からの命令によるもので、創建年代の正確な史料は有りませんが、督促を受けながら詔勅後二十年以内くらいには建てられたであろうとされています。国分寺の建立は、国家としては雄大な計画ではあったが、実際に建築を請負わされた諸国には大きな負担であったと考えられます。
 ところで、伊豆国分寺の創建位置が現在地(泉町附近)と決定されたのは、昭和30年になってのことでした。決め手となったのは蓮行寺(同年国分寺と改称)境内の八個の、七重の塔の礎石でした。
 その後、すでに住宅地となってしまった周辺の、部分的な発堀調査が進められ、ようやく創建当時の伊豆国分寺の規模が明らかになりました。それによれば、寺域が天平二町四方(214m四方)、伽藍地が縦天平百間(178m)・横天平八十間(142m)で、境内には七重塔・金堂・講堂・僧房・南大門・鐘楼・経楼・廻廊等の建築物が配置されていたとされます。
 現在の広小路から楽寿園西南面附近に至るあたりです。一個の天平の瓦から大伽藍が目に浮びます。
(広報みしま 昭和63年7月1日号掲載記事)