(第253号)日本文学資料館の資料から ・北杜夫と永井ふさ子・ (平成21年6月1日号)

 市民生涯学習センター二階の、日本文学資料館では、「茂吉をめぐる歌人たち」と題し、関係資料を展示しています。今回新たに、茂吉をめぐる人物として作家・北杜夫と歌人・永井ふさ子の資料も展示しましたので紹介します。  

 作家・北杜夫(本名・斎藤宗吉)は昭和二年(一九二七)東京都に斎藤茂吉の次男として生まれ、医師でエッセイストの斎藤茂太は兄にあたります。  

 杜夫は、大学卒業後、慶應義塾の大学病院で精神科医として勤務するかたわら、作家として活躍します。マグロ漁業を調査する船の船医として航海時の体験談をつづった『どくとるマンボウ航海記』が昭和三十五年に刊行されベストセラーとなり、同年には『夜と霧の隅で』で芥川賞を受賞します。  

 どくとるマンボウシリーズ(昆虫記、青春記など)に代表されるユーモア溢れるエッセイと、父の茂吉が院長を務めた青山脳病院を舞台にした『楡家の人びと』などのシリアスな作品とを書き分ける作家として、世代を超え人気を博すようになりました。  

北杜夫のはがき
253北杜夫のはがき

 また自宅にはマブセ共和国(マンボウ・リューベック・セタガヤ・マブセ共和国)を建国し、フクロウをあしらった国旗を揚げ、ドイツマルクにならった「マブセ」という通貨を使用しています。日本文学資料館では、この五〇万マブセの紙幣を展示しています。  

 一方、歌人・永井ふさ子は明治四十三年(一九一〇)、愛媛県松山市に医師・永井政忠の四女として生まれます。正岡子規と縁戚関係にあたり、遊学のため上京していたふさ子は、昭和八年にアララギへ入会し、翌九年九月、子規の三十三回忌の歌会が向島百花園で開催された時に茂吉と出会います。ふさ子二十四歳、茂吉五十二歳のことでした。  

 その後、茂吉との交際が続き、茂吉がふさ子へ送った手紙は百五十通あまりにも及びました。  
 昭和十八年に疎開のため伊東市玖須美へ移住すると、茂吉とも疎遠になります。そして平成五年、ふさ子は生涯嫁ぐことなく、当地 で八十三歳の生涯を閉じました。  

 当館で展示している、茂吉がふさ子に送った一通の手紙は、「あなたはやはり清純な玉でありました」で始まり「恋しき人よ。さようなら」で終わる恋文です。内容では「愛の力は宏大深刻です。また、清く正しきものは常に勝ちます。(中略)僕は老残の身をいたはりつつ、せい一ぱいの為事をして、この世を去りませう」と述べ、老いゆくわが身を案じながらも、文中の至る所に、ふさ子への愛情が満ち溢れています。

永井ふさ子への書簡
253永井ふさ子への書簡
【平成21年 広報みしま 6月1日号 掲載記事】