(第278号)三島と大正・昭和初期の社会 (平成23年7月1日号)

 現在開催中(平成二十三年六月十一日から九月二十五日)の市制施行七十周年記念「三四呂人形の見た近代」に 併せ、三島市が成立する直前の時代(大正、昭和初期)のできごとや世相を、三四呂人形を通して紹介します。  

 三四呂人形の作者で郷土を代表する人形作家、野口三四郎は明治三十四年(一九〇一)に三島町大中島(現・三島市本町)に生まれ、昭和十二年(一九三七)に三十五歳で亡くなっています。三四郎が生まれたときに三島市はまだ北上村、三島町、錦田村、中郷村の四つの町村に分かれていました。  

 当時の三島を振り返ると、

・明治二十二年(一八八九)  

 御殿場経由で東海道線が開通し、かつての宿場町としてのにぎわいは見られなくなる。

・大正八、九年(一九一九、二〇)  

 野戦重砲兵第二、第三連隊が現在の文教町に移転。以後、軍都として発展する。

・昭和五年(一九三〇)  

 北伊豆震災で大被害

・昭和九年(一九三四)  
 
 丹那トンネル開通。現在の三島駅開業

・昭和十年(一九三五)    
 北上村、三島町の合併などの出来事がありました。  

 下の作品では昭和初期のモダンな若い女性の姿が表現されています。水玉のパラソル、ショートカットにしゃれたベレー帽、花柄のワンピースなど、当時流行したスタイルが取り入れられています。  
パラソルさして
パラソルさして

 関東大震災後の復興を遂げた東京では、近代的な建築物やモダンガール、モダンボーイなどが出現しました。三島の町にもまた、北伊豆震災後の復興で近代的な商店街が出現しています。現在もわずかに残る看板建築が建てられたのもこのころです。  

 傘を差した少女は買い物かごを提げており、そばには子犬がついてきています。三四呂人形には子どもを取材したものがたくさんあります。  
パラソル
パラソル

 三四呂人形が制作された昭和初期は昭和六年(一九三一)満州事変、昭和十一年(一九三六)二・二六事件、昭和十二年(一九三七)日中戦争が始まるなど徐々に戦争が近づき、軍国主義の色が強くなっていく時代でした。  

 しかし、このような時代にあっても三四郎は「美しい童心がお互いの心の中から日々に失せて行く事を思ふと何よりも淋しく悲しまざるを得ない」といって、厳しさを増す世相にあらがおうとしたのか子どもや家族を主題にした作品を作り続けたのでした。
【平成23年 広報みしま 7月1日号 掲載記事】