(第314号)野口三四郎と三四呂人形 (平成26年7月1日号)

 七月十九日 (土)より開催の企画展「 郷土資料館収蔵美術品展」で展示予定の三四呂人形の作者、野口三四郎についてご紹介します。  

 野口三四郎は、戦前に活躍した人形作家です。 明治三十四年(一九〇一) 三島町大中島(現本町)で質屋を営む野口達之助の次男として生まれました。  

 昭和三年(一九二八)頃に三越の早撮り写真の機械技術師となり、翌年、朝鮮の京城(現ソウル)で朝鮮博覧会が開催された際に、自動写真撮影館の技師として派遣されたことが人形作家への転機となります。三四郎は博覧会終了後も朝鮮に滞在して山村の風景や運動会、市場の様子など庶民の生活をスケッチしてまわり、これがその 後の人形制作に生かされます。帰国後張子の製法を学び、 東京で写真館を開業すると共に、 本格的な人形制作を始めます。当時、人形を芸術の域に高めようという人形芸術運動が盛んな折で、野口光彦や後に人間国宝となる鹿児島 寿蔵、堀 柳女らと共に甲戌会を結成し、この運動にも力を注ぎます。  

 昭和九年(一九三四)に妻を、翌年には三歳の娘桃里を失うなかで人形制作に励み、昭和十一年(一九三六)、「水辺興談」を第一回人形芸術院展に出品し、最高賞である、「人形芸術院賞」を受賞します。この作品は、三島の広瀬(現泉町、芝本町)付近の源兵衛川で水遊びをしている甥の兄弟がモデルとされています。  

 三嶋大社所蔵の(春日団欒)は、理想の親子像を表したものといわれており、集大成の作品ともいわれています。  

 三四郎の作品は少年、少女、動物などが多く、三四郎自身も「私の作る子供の姿は乃ち私の失せた過去の姿の記録であるとも云える」という言葉を残しています。  

 三四郎は、三十五歳という若さで亡くなりますが、鹿児島寿蔵が「天才的作家だった」といっていることからも三四郎自身が早世でなければと惜しまれてなりません。  
【平成26年 広報みしま 7月1日号 掲載記事】