(第336号)官軍御用日記~三島宿維新活動の記録~(平成28年5月1日号)

 今回は、三島宿や近隣で起こった出来事について書かれた『官軍御用日記』(慶応四年〈一八六八〉二月~明治二年〈一八六九〉二月)を紹介します。

 幕末、慶応四年一月から始まる戊辰戦争で薩摩・長州などの藩が倒幕のため江戸へ進軍する中、東海道沿いでは小田原以西すべての藩が官軍に従う意思を示します。しかし、抗戦を続ける旧幕府勢力もあり、箱根では遊撃隊という旧幕府勢力のひとつと新政府軍との戦いがありました。戊辰戦争はその後も東北地方などで続きますが、同年七月、天皇の江戸への東京行幸と江戸の東京改称が宣言されます。このような時代背景の中で『官軍御用日記』は書かれました。

 この時期、東海道では明治天皇や、新政府軍のほか徳川慶喜(よしのぶ)に代わり徳川家の相続を許されて駿府へ向かう家達(いえさと・亀之助)などが通過しました。その行列はとても目を引くもので、日記には三島宿近隣を通過したり宿泊した大名・公家・下級武士などの名前や動向などが詳細に記されています。

 日記では、新政府軍の行為に対し、近隣の関所や番所を奪ったという見方をしており、「乗取」という表現が使われています。箱根の関所でも同様で、文中には「薩州様ニテ乗取」とあり、官軍に制圧されたとしています。また三島宿では、新政府軍が通過したときには十五歳~六十歳の人々が人足として駆り出されるなど負担を強いられました。

 慶応四年五月、旧幕臣を中心とした部隊である彰義隊(しょうぎたい)が東京上野で戦闘を始めます。沼津でその一報を受けた遊撃隊が箱根を通過するため、三島宿に立ち寄ったときの宿泊所や彼らの動向が詳細に記されています。また、遊撃隊の大将林忠崇(ただたか)は脱藩した藩主であり、そのうえ新政府軍に抵抗しているにもかかわらず、著者は「様」を付けて敬意を払っています。小田原藩の藩論が佐幕か勤皇か二転三転したため、遊撃隊と衝突する結果となり、新政府軍も交え箱根で戦いが起こりました。湯本や畑宿の集落は焼き払われ、付近には川のように血が流れ箱根宿内にも死人が溢れるなど、箱根戦争について生々しく表現されています。

官軍御用日記
『官軍御用日記』箱根戦争について記載した部分

 慶応四年九月、元号が明治に変わります。その約一カ月前の八月十三日、徳川家達が三島宿の樋口本陣に宿泊しています。駿河・遠江などが家達の領地となったため、江戸から駿府へ向かうこととなり、途中の三島に宿泊しました。このとき既に新政府軍に従う姿勢を示していた韮山代官江川英武(ひでたけ)が三島宿にご機嫌伺いに訪問しています。翌日には、三島宿の問屋・年寄が宿場の西端にある千貫樋まで見送りに来ています。朝廷に政権が移った後であっても徳川家に対し敬意を払っていたことがわかります。

 また、郷土資料館発行『三島市郷土資料館研究報告8』にて『官軍御用日記』の全文翻刻を掲載しています。ぜひご活用ください。


【広報みしま 平成28年5月1日号掲載記事】