(第361号)何が変わった?明治の三島(平成30年6月1日号)

今年は明治維新から百五十年という節目の年にあたり、各地で明治時代に関する行事などが予定されています。郷土資料館でも六月二十三日㈯から幕末・明治の三島をテーマにした企画展を開催予定です。そこで今回は、江戸時代と明治時代で「変わったこと」と「変わらなかったこと」をテーマに企画展のエッセンスをお伝えします。

江戸時代の三島は、宿場町として栄えました。この状況を一変させたのは、明治二十二年(一八八九)に開通した東海道線です。日本の東西を結ぶこの鉄道は、険しい箱根を越えることが難しく、御殿場方面に大きく迂回するルート(現在の御殿場線)を採用したため、三島は新しいインフラである鉄道路線から外れてしまいました。その結果、旅客が大きく減り、廃業する旅籠(宿泊施設)もありました。三島に鉄道が通るのは、東海道線三島駅(現在の下土狩駅)から南條駅(現在の伊豆長岡駅)までを結ぶ豆相鉄道が開通する明治三十一年のことでした。鉄道の開通は、徒歩や馬での旅客が減り宿場に打撃を与えた一面もあります。一方、遠方から繭などを買い付けに多くの商人が訪れることで明治以降の新しい産業である養蚕や製糸業の発展に寄与するなど、人や物の行き交いが活発になるなどの良い影響もありました。

生活面の変化としては、教育も大きく変わりました。江戸時代までの教育は寺子屋や私塾などで行われていました。それが大きく変わるのは明治五年、学制の発布です。これにより小学校、中学校、大学が生まれました。三島でも三島学校をはじめ明治六~八年の間に十校の小学校が開設されています。学校制度が発足してからも、文部省の定めたカリキュラムに準じた私塾などが存続しましたが、次第に小学校に統合されていきました。

社会や産業、生活などさまざまな面で変化が見られた明治時代ですが、江戸時代から引き継いだものも多数あります。その一例が人材です。

明治時代に入ると、それまでの村の名主に代わって、村レベルの区域をまとめる戸長や区長という役職が置かれました。三島の場合、その多くがかつて名主をつとめた家柄の出身者でした。また、学校が置かれる以前に地域の教育を担った私塾、中でも儒学を教える漢学塾で学んだ人材が、明治時代には新しい産業を興したり地方議会議員をつとめるなど、地域の近代化に尽力しています。

幕末・明治維新は目まぐるしい変化をもたらしましたが、その変化を受け止め適応し、さらなる発展をめざして地域を支えた人々が現在につながる三島の近代化の原動力となりました。

駿豆電気鉄道

 ▲豆相鉄道(後の伊豆箱根鉄道)時代の車両



【広報みしま 平成30年6月1日号掲載記事】