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大学

日本大学国際関係部・短期大学部

日本大学三島キャンパス
日本大学三島キャンパス

 日本大学三島キャンパスは昭和21年(1946)6月三島予科(よか)として発足し、昭和24年(1949)に新教育制度の実施に伴い教養部となり、昭和25年(1950)には短期大学が設置されました。さらに、昭和33年(1958)に教養部は文理学部と改称され、法、文理、経済、商学部の教育の一部を担当する場として成果をあげました。そして、昭和54年(1979)に国際関係学部が設置され、現在、国際関係、国際文化、国際交流、国際ビジネス情報学科がおかれ、大学院も開設され、聴講生(ちょうこうせい)も学んでいます。
 
 また、短期大学には、商経学科、食物栄養学科、専攻科
(せんこうか)食物栄養専攻があり、合わせて約4,000人余りが通学しています。

市民が参加できる主な行事
◎市民公開講座
 上期(5月〜6月)、下期(10月〜11月)と2回に分けて無料で実施しています。
◎学術講演会
 さまざまなテーマの講演会が随時
(ずいじ)開催されています。
◎富桜祭
(ふおうさい)
 11月上旬に開催される大学祭です。学生による楽しいイベントや 進学説明会などが多数企画されています。また、球技大会も同時に 開催されています。 バレーボール、サッカー、ソフトボール、ゲートボール、テニス、卓球など、誰でも参加できます。
◎オープンキャンパス
 受験生対象に体験授業などを実施しています。学内の見学も随時受
け付けています

日本大国際関係学部・国際機関資料室


 日本大学(以下日大)国際関係学部国際機関資料室は、図書館の2階に設置され、国際連合、欧州
(おうしゅう)連合(EU)、経済協力開発機構(OECD)などの、国際機関に関する資料を収集公開しています。
 
 昭和54年(1979)に国連寄託
(きたく)図書館として、ニューヨークの国連本部にあるダグ・ハマーショルド図書館から指定を受け、翌昭和55年(1980)から、資料を公開しています。昭和60年(1985)には欧州委員会より、EC(当時)資料センターとしての指定を受け、EUに関する資料を、平成12年(2000)からは国際協力プラザコーナーを設け、国際協力関連の総合的な情報を提供しています。国連寄託図書館とEU資料センターを併設(へいせつ)しているのは、全国でも当館を含め国立国会図書館や東京大学、北海道大学、琉球(りゅうきゅう)大学など8館だけとなっています。
 
 主な資料として、各機関の報告書や会議内容などが、出版物や文書となって海外の本部から直接送られてきます。経済、社会問題、人口問題、安全保障、条約、教育問題、統計などさまざまな情報を資料として収集しています。ほとんどが英語の資料ですが、重要な資料は日本にある国際連合広報センターや駐日欧州委員会をはじめとする各機関の在日事務所で翻訳
(ほんやく)され、日本語の資料となって送られてきます。
 
 開館時間は平日は9:00〜17:00で、土曜日は9:00〜13:00です。レファレンス
(注)は、来館ならびに電話・FAX(解答はFAX不可)でも受け付けています。資料の貸し出しはできませんが、セルフサービスのコピーが可能です。

(注) 照会、問い合わせ


 

放送大学 静岡学習センター

 放送大学は、「各専門分野における学術研究を通じて新しい教養の理念を追求し、放送を活用して大学教育を行い、併せてせて広く生涯学習の要望に応(こた)えること」を目的として、昭和60年(1985)「放送大学学園法」に基づき政府が設立した正規の通信制大学です。文部科学省と総務省所管の特殊法人です。 
 
 本部は、千葉市にありますが、全国各都道府県にそれぞれ学習センターが設置されていて、学生に学習の場を提供しています。静岡県内では、JR三島駅北口徒歩3分の所にある県教育委員会三島分館(旧、県立教育研修所)内にある「静岡学習センター」のほかに、浜松市には当センターとほとんど同じ機能を持つ「浜松サテライトスペース」が、また静岡市にはセンター外視聴
(しちょう)施設として「静岡市学習室」があります。 
 
 入学試験はなく、4月と10月に入学できます。学生は、4年以上在学し大学卒業を目指す全科履修生
(りしゅうせい)と、広く教養を身につけるために興味関心のある科目だけを学ぶ選科履修生(1年間)、科目履修生(6カ月間)に分かれています。コースは、生活科学、産業、社会、人文、自然の3コースで300科目が用意されています。卒業生には「学士(教養)」の学位が授与(じゅよ)されます。また、学芸員、図書館司書(ししょ)などの資格を取得する道がひらけます。 
 
 現在、全国では8万人以上の学生と1万5千人以上の卒業生がいます。当センターには、幅広い年齢層やさまざまな職業の約1,500人の学生が在籍し、生涯学習や自己啓発あるいは学位取得など、それぞれ目的を持って学習しています。 
 
 学習方法としては、「自宅がキャンパス」としてマイペースで、CATV
(注1)、スカイパーフェクTV(無料)(注2)を視聴したり、印刷教材(教科書)を読むか、学習センターでビデオテープ、オーディオテープを視聴することになります。テープは、約6,000本あり、貸し出しを行っています。また放送大学本部はもちろん、静岡大学、静岡県立大学、日本大学の図書館も利用できます。なお、いつでも体験学習ができます。


(注1) Cable Televisionの略、有線テレビ
(注2) 商業用通信衛星を使ったデジタル放送を行う会社の1つ


なぜ三島に日大が?
 昭和21年(1946)日本大学三島予科が開設されました。当時三島は、2つの野戦砲兵連隊がある「軍都」でしたが、終戦により連隊跡が連合軍から日本政府に返還されることとなり、予科校舎を探していた日本大学は、連合軍、静岡県、名古屋財務局、大蔵省などへ陳情し、払い下げを受けることができました。
 
 6月15日、入学式が行われ、文科生738人、理科生492人の計1230人が集いました。当時、東部地区に大学はなく、文化都市への第一歩として三島市民に歓迎されました。

出典 『三島市誌増補資料編T』

研修生の感想      〔パサディナ市立大学にて〕
 三島市では、毎年夏に姉妹都市のパサディナ市に研修生を派遣しています。その研修生の報告から、アメリカの大学をのぞいてみました。

 パサディナ市立大学で研修を受けてから、アメリカの大学院で勉強したいと思うようになりました。いろいろな世代、育った背景の異なる人たちが学び続け、挑戦していることに感銘を受けました。学生の学ぶ姿勢、参加型授業などに強く魅せられました。

平成5年(1993)派遣 稲葉郁子さん談

 先生と学生の交流が自然に行われ、学生がとてもリラックスして発言している授業、いろいろな人種、異なるアクセント、年齢層の厚い学生たちの中で、大学で学ぶ意味を考え直させてくれました。

平成8年(1996)派遣 吉田亜生さん談
→ 国際交流、パサディナ市

国立遺伝学研究所

国立遺伝学研究所の写真
国立遺伝学研究所

 この研究所は遺伝学に関する基礎的研究と遺伝学の指導、促進(そくしん)を目的に、昭和24年(1949)に文部省(現、文部科学省)の所轄(しょかつ)機関として設置されました。三島市が場所として選ばれた理由は、東京に比較的近く、実験圃場(ほじょう)(はたけ)に適する広い土地があったからです。
 
 昭和59年(1984)には、広く大学などの研究者と共同研究を行う大学共同利用機関に改組され、17の研究部門と6つの研究施設が置かれています。
 
 各研究部門では、イネ、ショウジョウバエ、カイコ、マウス、ヒドラ、ウイルス、酵母
(こうぼ)、細菌などを研究材料として、微生物(びせいぶつ)からヒトまでの各種動植物、微生物の遺伝について、分子、細胞、個体、集団の各レベルでの基礎的研究や、それらを基盤とした応用的研究が行われ、遺伝子(いでんし)改変(かいへん)や遺伝子導入による変化の解析(かいせき)、遺伝学研究に有用な生物系統の収集保存なども行われています。昭和63年(1988)には、「総合研究大学院大学」が設置され、大学院生の教育にも協力しています。
 
 この研究所は、昭和51年(1976)三島市民として初めて文化勲章
(くんしょう)を授与(じゅよ)された木村教授をはじめ、数多くの優れた研究実績により世界的にも重要な研究所として広く知られています。研究所内に設立された日本DNAデータバンクは欧米(おうべい)のDNAデータバンクと連携して、配列データベースの世界協同構築を進めています.集められたデータは人類共通の財産であるという認識のもと、インターネット上で公開されています。
 
 遺伝学の普及と、最近話題の「クローン動物」「遺伝子治療」「遺伝子組み換え食物」などについて市民にも正しい知識を持ってもらうために、静岡県教育委員会や三島市教育委員会では「県民講座」、「市民講演会」を開いています。また毎年4月の科学技術週間には、各研究部門の展示や講演を行い、研究所の一部を一般に公開しています。



 研究所の構内には、260種余りのサクラが400本近く植えられています。これほど多くの品種のサクラが1カ所に植えられている所は、世界でも珍しいことです。また、研究所前の市道の両側にもサクラが植えられ、サクラの名所として市民に親しまれています。
 「三島市の花」であるミシマザクラはこの研究所で竹中博士が、ソメイヨシノの起源を知るための研究の過程で生み出されたサクラです。


→  ミシマザクラ
 『国立遺伝学研究所要覧』、『遺伝研の桜』


ミシマザクラのイラスト

三島市市政功労者
木村資生(きむらもとお)


  生物学者
 大正13年〜平成6年
 (1924〜1994)
木村資生の写真


  愛知県岡崎市で生まれた資生は、父が植物の栽培を楽しんでいた影響か、小さなころから植物の美しさや複雑さに夢中になっていました。父が与えた顕微鏡
(けんびきょう)で、何時間も夢中になって過ごしたそうです。
  昭和17年(1942)に旧制第八高等学校に入学しました。そこで、当時有名な植物学者であった熊沢教授に出会い、ユリの花の染色体の構造を研究しました。そのとき生物統計に関する問題に出会い、それまで得意だった数学が生物学の問題に応用できるということを発見しました。
  細胞遺伝学に興味をもち、昭和19年(1944)に京都帝国大学(現、京都大学)に入学し、木原均教授のもとで研究することになりました。当時、日本の細胞学は、世界で非常に高く評価されていました。木原教授は日本で最も有名な遺伝学者でした。
  昭和24年(1949)に三島の国立遺伝学研究所に移り、研究を続けました。同研究所の駒井卓博士の勧
(すす)めがあり、その後アメリカに留学することになりました。木村は、数多くの論文を発表し、学生のときから指導的な集団遺伝学者として高い評価を得ていました。昭和31年(1956)に学位を取得して、帰国しました。
  その後10年間は、集団遺伝学の分野で最も木村が発展させた時期でした。彼の名前は、フィッシャー、ホールデン、ライトという3人組に加わり、新しく4人組となってますます輝きが増すだろうといわれました。
  昭和43年(1968)、木村は今までと違った道を歩み始めました。分子の進化について全く革新的な考え方です。ダーウィンの自然淘汰
(とうた)の考え方ではなく、ランダムな過程、確率過程が支配しているという考え方です。このようにして生まれたのが「中立説」でした。この説により、木村の名前は、集団遺伝学の分野以外の生物学分野でも広く知られるようになりました。
  「中立説」は賛否両論を呼ぶ理論となりましたが、数年後、この理論でいろいろな予測が立てられるようになり、もはや疑う余地のないものとなりました。
  木村は、進化生物学者が得ることのできる賞をほとんど総なめにしたといってもいいほどです。ノーベル賞を受賞できなかった理由は、残念なことに、数理生物学の分野がなかったからだといわれています。
 平成3年(1991)に、三島市より市政功労表彰を受けました。

木村資生インタビュー記事から

「私の中立説では、生存繁殖(はんしょく)に都合の良くも悪くもない突然変異遺伝子のうち、運のいいものが種内に拡がる、といっているのです。ダーウィンの自然淘汰説を否定しているものではありません。国内外で私がまるでアンチ・ダーウィニズムかのように書き立てられるのには往生(おうじょう)します。(笑)中立説に強く反対していた(イギリス)王立協会の進化関係の人たちが私にダーウィンを記念する賞(ダーウィン・メダル)をくれたのには驚きました。(談)」

出典 みしまプラザホテル文化情報誌 Vol.30


















庶民大学

 戦後の荒廃(こうはい)した世相を憂い、地方文化を育成し郷土に潤いをもたらそうとして、当時の三島商業高校校長伊藤三千代を中心とした市民で、「三島文化協会」を設立。その主催により「庶民大学講座」が、三嶋大社社務所で行われました。昭和20年(1945)敗戦の年の12月、真理探求の情熱に燃える若い学者を迎え、その中の1人、東京大学教授丸山真男(まさお)は、「封建的精神との戦い」について話しました。そこに参加した民主主義を知りたいと思った人たちで、「庶民大学三島教室設立準備委員会」を作りました。
 
 住民の学習組織だった庶民大学三島教室は、昭和21年(1946)2月開講しました。講義は夜で、場所は三島勤労署(現、社会福祉会館)、三島市立西小学校、市役所議場で、会員は教師や商店主、農民、主婦、勤労者ら250人で、会費は10円。申し込めば誰でも入学できました。聴講料は6〜10回の講義で5円でした。いつも100人ぐらいの受講者で席が埋
(う)まりました。運営は会員有志で行い、その中心的人物だったのは、函南村畑毛に疎開(そかい)していた労働法学者の木部達二でした。
 
 講師陣は木部の人脈から、丸山真男、中村哲、川島武宜(たけよし)、大河内一男諸先生の豪華な顔ぶれが揃(そろ)いました。第1回のテーマは「家族制度の将来」で、川島武宜による日本社会と婦人の話でした。講師陣は買い出し列車で三島まで通い会員の家へ2〜3泊し、生徒と活発な議論を交わし、雑炊(ぞうすい)をすすり、芋(いも)を食べながら熱っぽく語り合いました。
 
 他の講義は「生活上のデモクラシー」「19世紀社会思想史」「日本経済の反省」など質の高いテーマでしたが、木部の病死により、昭和23年(1948)6月、発足から2年で幕を下ろしましたが、講義は97回にも及びました。庶民大学三島教室は、当時の進歩的な学者、文化人を講師として地方文化の向上に役割を果たし、その後、聴講生の中から多くの社会的運動家を生み
出しました。

出典 『三島・沼津石油コンビナート進出阻止の住民運動』

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