むかしの学校漢学塾と寺子屋三島には中世から寺が40数カ所(現在は60カ所)もあり、寺が学校の役割を果たしていました。江戸時代貨幣(かへい)経済が発達すると、学問は庶民の間に普及(ふきゅう)しました。そして、読み書き算盤(そろばん)を教える寺子屋や、中国の学問を学ぶ漢学塾が多数でき、明治5年(1872)の学制により小学校ができるまで、三島の教育の中心でした。当時の主な三島の庶民教育施設ついては下の地図や表を参照してください.
(注) 弥佐塾の場所は不明 出典 『三島市誌 下巻』 三島の近世の教育
三島に教育の種をまいた人
近代地理学の草創者 |
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近世地理学の草創(そうそう)者の1人である並河五一は、山城国で生まれ、五畿(注)内を6年間歩き 調査して『五畿内志(ごきないし)』を編纂(へんさん)しました。これは、後の地誌の見本となりました.
五一が三島へ来たのは、伊藤(いとう)仁斎(じんさい)の下で同門であった三嶋明神(みしまみょうじん)の神主(かんぬし)、矢田部盛富(やたべもりとみ)の誘いがあったからと言われています。享保11年(1726)5月には、漢学の私塾、仰止館を三島宿の北に開きました。この仰止館からは、後に伊豆の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)』の編纂者(へんさんしゃ)、秋山富南(ふなん)を始め、逸材(いつざい)を輩出(はいしゅつ)しました。
71歳で亡くなり、三島駅の北、金堀塚(かなほりづか)(現、三島北高校内)に墓が作られましたが、大正8年(1919)三島野戦(やせん)重砲兵(じゅうほうへい)連隊(れんたい)がこの地に移転されるとき、墓地は本覚寺(ほんがくじ)に移されました。
(注) 歴代の皇居が置かれた大和、山城、河内、和泉、摂津の5つの国のこと
→ 秋山富南と『豆州志稿』、本覚寺
出典 『三島小誌5』p.111、三島の近世の教育 (三島市郷土資料館資料)
筆子と筆子塚
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三島黌(みしまこう)の誕生明治5年(1872)学制が公布されました。旧問屋場跡地に設置されていた開心庠舎(かいしんしょうしゃ)は、直ちに小学校となり、三島に小学校が誕生しました。明治6年(1873)三島黌(みしまこう)と改称し、正心舎、聿修舎(いっしゅうしゃ)、千之舎(せんししゃ)を分校としました。翌年これら3校は閉鎖され、三島黌に合併(がっぺい)されました。 明治9年(1876)公立三島学校となりました。新校舎建設の動きが活発となり、明治12年(1879)8月14日旧陣屋跡地(現、三島市役所)に洋式建築では県下一の新校舎(注)が完成しました。ちょうどこのとき、農兵調練場を見学に来た第18代アメリカ大統領のグラント将軍を、新築したばかりの学校に招きました。このことに因(ちな)んで三島黌の玄関をグラント玄関と呼んだそうで、三島町の誇(ほこ)りでした。 明治19年(1886)尋常(じんじょう)三島小学校に改称されました。児童数は約670人で、校長は、開心庠舎設立当初から引き続き吉原守拙(よしはらしゅせつ)がなりました。その後数回の校名変遷(へんせん)を経て、明治41年(1908)小学校令の改正により、町立三島第一尋常高等小学校(男子のみ就学)、町立三島第二尋常高等小学校(女子のみ就学)に分かれました。 昭和7年(1932)三島南尋常高等小学校、三島東尋常小学校となり、昭和16年(1941)国民学校を経て、昭和22年(1947)新学制施行(しこう)により、三島市立南小学校、三島市立東小学校となりました。
→ 問屋場、陣屋、吉原守拙
三島の聖人
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教育者 文政2年〜明治29年 (1819〜1896) |
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出典 三島の近世の教育 (三島市郷土資料館資料)
「三島黌(みしまこう)」の扁額(へんがく)は誰が? |
旧宮町(現、大宮町)は、明治のころ君沢郡社家(しゃけ)村といい、三島宿には属していませんでした。代々三嶋大社に奉仕する人たちが多く住み、明治6年(1873)これらの人が中心となり、大社の境内に、北上、錦田村で設立した5校(後に7校)(注)を支校として、勤有学校が開校しました。当時校長職はなく、矢田部盛次(やたべもりつぐ)が主席訓導(しゅせきくんどう)となりました。明治10年(1877)社家村が三島宿に合併され、三島学校に通学することとなり、明治12年(1879)閉校されました。これらの支校が、現在の徳倉小、佐野小、坂小、錦田小学校の前身となりました。
(注)教育者 不明〜明治33年 (不明〜1900) |
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養父守拙が三島で近代初等教育の礎(いしずえ)を築いた人としたら、三島、伊豆に近代中等教育の種をまいたのが呼我です。
佐倉藩士(さくらはんし)の二男で、佐倉藩学校成徳館で学びました。呼我は守拙の養子となり、明治5年(1872)5月より父と「開心庠舎(かいしんしょうしゃ)」を開き、読書、算術、習字を教え始めました。広範(こうはん)な学識を見込まれて、明治8年(1875)、足柄県師範学校(後の韮山高校)の先生となり、後には旧制韮山中学校校長となりました。明治16年(1883)、14歳以上を対象とした漢学専門学校「中権精舎(ちゅうけんしょうしゃ)」」を花島兵右衛門(ひょうえもん)とともに創設し、郷土の師弟教育に励みました。
→ 吉原守拙、中権精舎、花島兵右衛門
出典 『ふるさと三島』p.178、179
明治16年(1883)吉原呼我(よしはらこが)が韮山中学校の校長を退職した後、中央町(現在の市役所西館の場所)に中等教育を目的として開校しました。14歳以上の男子を対象とした漢学を教える私立学校です。後に英語も教えました。生徒数は10〜40人と多くはありませんが、地域の指導者や文化人が育ちました。
→ 吉原守拙、吉原呼我、中央幼稚園
出典 三島の近世の教育
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大正14年(1925)町立三島第三尋常小学校(現、三島市立西小学校)の新設当時、校庭の片隅(かたすみ)にあった防火用も兼ねた池(元、養鰻池(ようまんいけ))を改造し、50mプールを作りました。深さが8尺(約2.4m)もありました。(現在、小学校のプールは、長さ25m、水深約1.2mが標準の大きさ)水はなみなみとあふれ、水の都三島ならではの自慢のプールでした。当時、三島市内の他の小学校にプールはなく、遠方から泳ぎに来ました。毎年プール開きには水泳が盛んだった浜松の第一中学校(現、浜松北高校)や第二中学校(現、浜松西高校)、浜松商業学校の選手が模範(もはん)水泳に招(まね)かれました。
昭和23年(1948)、戦後の食糧難の時代に自由形で世界記録を次々に出し、フジヤマノトビウオと呼ばれた古橋広之進(ふるはしひろのしん)さんも招かれました。この様子をひと目見ようと、多数の見物人が押しかけ、なんとプール脇の藤棚(ふじだな)が倒れてしまいました。
出典 『西小の五十年』
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伊豆箱根鉄道駿豆線(すんずせん)のイトーヨーカドーの近く(東本町2丁目)の踏切は、学校踏切と呼ばれています。かつてここに三島実科高等女学校があったためこの名前が付きました。第2次世界大戦後、学制改革で三島高等学校となり、昭和34年(1959)に長泉町竹原に移転するまで、この地に校舎がありました。 |
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