三島宿三島宿(みしまじゅく)三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神(みょうじん)の門前町として大変なにぎわいを見せていました。 慶長(けいちょう)6年(1601)徳川家康は宿駅(しゅくえき)制度を作り、最終的には東海道に53の宿駅を設け、三島宿は江戸日本橋から数えて第11番目の宿駅に指定されました。その後、第三代将軍家光が参勤交代を制定し、各大名の東海道往来が多くなり、箱根に関所が設けられると三島宿は江戸防衛の役割を担(にな)うようになります。 出典 『ふるさと三島』 P.82、131、182、『四辻の町 三島』三島郷土資料館 見付(みつけ)見付はもとは城門のことで、通行人を見張ることから起こった名称です。宿場の出入り口にあって宿内の見通しを防ぐ施設でもありました。夜間は扉を閉ざし通行人を止めるのが普通でした。東見付は神川(かんがわ)(今の大場川)にかかる新町橋のたもとにあり、石塁(せきるい)式の土手に囲まれた枡型(ますがた)見付です。 西見付は江戸時代初期には源兵衛川石橋(現、広小路付近)のたもとに設置されていましたが、正徳(しょうとく)元年(1711)になり六反田以西の町民の要請により、千貫樋(せんがんどい)付近に移しました。ここも枡型見付です。 南見付は下田街道の言成(いいなり)地蔵付近にあり、付近の桜川にかかっていたという珍しい石橋の石材が現存し、「・・・見付橋掛替・・・」の刻銘(こくめい)が見られます。なお北見付は樋口家文書『三島宿図』に記されていますが、場所がはっきりしません。 新町橋(しんまちばし)から三嶋大社東海道五十三次 三島 狂歌入り 初代広重(佐野喜版)望月宏充氏蔵 川原ヶ谷を過ぎ新町橋を渡ると、三島市街に入ります。現在の新町橋は平成8年(1996)11月に架け替えられたものですが、橋の真ん中辺りに『ここ《三島》から東京ヘ103km、京都まで383km』と記(しる)したプレートが置かれています。 この橋から富士山が美しい容姿を見せてくれますが、江戸時代、安藤広重がここから見た雪景色の富士山(東海道五十三次 三島 狂歌入り 佐野喜版)を描いています。 ここから三嶋大社までの旧東海道に沿って、右に光安寺(こうあんじ)、薬師院(やくしいん)、左に妙行寺(みょうぎょうじ)、成真寺(じょうしんじ)、本妙寺(ほんみょうじ)と5つのお寺があります。いずれもいく度かの大火や大地震で焼失、倒壊(とうかい)の憂(う)き目を見ていますが、その後、再建し現在に至っています。 出典 『ふるさとの思い出』p.19 『ふるさと三島』P.57、 郷土資料館HP
さらし首場(くびば)無縁法界地蔵 「市中(しちゅう)引き回しの上、獄門(ごくもん)申(もう)し付ける」。この言葉は今でも時代劇のドラマを見ているとよく出てきます。江戸時代には見せしめのため、重罪人を後ろ手にしばり馬に乗せて宿中(しゅくじゅう)を引き回しの上、水上(みずかみ)(現、一番町)の茶屋に寄り本人の望みの酒食をとらせ、小浜山(こはまやま)(現、JR三島駅構内)の処刑場(首切り松)で首切り処刑をしました。 その後、罪状を書き示し生首を新町橋のたもと南側の台上にさらし、3日間通行人に見せたのです。役人は罪人を無宿者(むしゅくもの)扱いにし、累(るい)が家族に及ばないよう温情を施しました。そこでさらし首になった人たちは、無縁仏として近くの寺に葬(ほうむ)られました。現在は橋の下流50mくらい行ったところに石仏(無縁法界地蔵むえんほうかいじぞう)(注)があり、土地の人たちによって、毎年7月20日に供養(くよう)がされ、手厚く祀(まつ)られています。 → 首切り松 出典 『三島市誌 中巻』 P.894、『ふるさと三島 』P.82 首切り松小浜山刑場供養碑 三島宿のはずれ(現、JR三島駅構内)に小浜山(こはまやま)刑場(けいじょう)があり、首切り松といわれた松の大木がありました。韮山代官所から検視役人(けんしやくにん)(注1)が来て、罪人は宿中(しゅくじゅう)を引き回しの上、竹矢来(たけやらい) (注2)に囲まれた中で首を切られました。 (注1)首切り処刑が確かに行われたことを確認する役人
瞽女(ごぜ)薬師院境内には「ごぜ屋敷」があったと言われています。鼓(つづみ)を打つ盲目の女性を「ごぜ」と言いましたが、ごぜはただ鼓を打つばかりではなく、踊りも三味線も歌も巧みな遊芸人(ゆうげいにん)でした。 → 薬師院
高札場(こうさつば)江戸時代には情報伝達の大切なものとして高札がありました。三島宿では三嶋大社入口鳥居の左側と二日町に高札場があり、法度(はっと)(おきて、禁制)などを板書きし人目につきやすいように掲げてありました。高札の造りは寸法が定められており、板札に書かれたものを幕府の役人から交付され、それを掲げたのです。内容は親孝行すべきこと、切支丹(きりしたん)禁制、宿駄賃銭(しゅくだちんせん)、火つけ人についてなど、さまざまにわたっていました。 出典 『三島市誌 中巻 』p.399、『ふるさと三島』p.119
伊豆国代官(いずのくにだいかん)(三島代官みしまだいかん) 徳川家康が関八州(注1)の支配者となったのは、小田原北条氏没落後の天正(てんしょう)18年(1590)7月のことです。家康は、初代の関東代官として伊奈熊蔵(いなくまぞう)を任命しました。ほぼ同時に、三島に伊豆国代官所が置かれました。現在三島市役所がある所で、三島代官所と言われています。江戸時代の代官の任務は民政の安定と同時に治安(ちあん)の確保が重要課題であり、今の市役所、警察署、裁判所、税務署などのすべての仕事を行っていたと考えられます。 (注1) 関東八州のこと。箱根関以東の常陸(ひたち)・下総(しもうさ)・上総(かずさ)・安房(あわ)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)の8カ国のこと (注2 )江戸幕府直轄の領地で、幕府の経済的基盤を担(にな)う。 出典 『ふるさと三島』p.60
御鷹部屋(おたかべや) 徳川家康が三島へ鷹狩りに何度か訪れた影響を受け、第三代将軍家光は元和(げんな) 9年(1623)御鷹部屋を二宮町(現、芝本町)へ建てました。そこは、現在の浅間神社、長圓寺(ちょうえんじ)付近であったと考えられています。 出典 『ふるさと三島』p.217 御殿(ごてん)徳川第三代将軍家光は、元和(げんな)9年(1623)上洛(じょうらく)の際の宿泊用としてこの地に御殿を造らせました。場所は石垣や石畳道の残存状況から、南本町三島市立社会福祉会館南側辺りと考えられています。文献はなく絵図しか残っていませんが、総面積約1万3千坪(4.3ha)といわれ、庭園、本丸、二の丸が造営されました。東西両面に清流がめぐり、南は遠く天城山、北は霊峰(れいほう)富士が見える景勝地でした。 出典 『三島宿の栄え』 p.13『ふるさと三島』p.150
|
|||||||||||||||
問屋場(といやば)宿場(しゅくば)があった時代には、現在の三島市役所中央町別館のところに問屋場がありました。幕府の役人や大名および旅人の荷物を運ぶために、いつも人足と馬を用意していました。三島宿は、初めのころ、人足36人、馬36頭の常備を義務づけられましたが、その後100人100頭、200人200頭の時代もありました。三島宿を通行する人や馬の数は大変多く、夜明け前から夜遅くまでにぎわいました。大名行列が早立ちともなれば、問屋場は目の回るほどの忙しさでした。大名行列のたびに、問屋場の役人は交代で送り迎えをしたり、本陣宿泊中は警備をしたりと、体がいくつあっても足りないぐらいでした。また、通信の仕事をする飛脚人足(ひきゃくにんそく)もいました。 これらの仕事の管理を行った場所が問屋場と呼ばれ、宿場の中心的役割を担いました。問屋、年寄(としより)、名主(なぬし)という宿(しゅく)三役により運営されており、運輸、宿泊の仕事を問屋と年寄で、年貢(ねんぐ)の取り立てなどの仕事を名主が行っていました。 問屋場跡碑 出典 『ふるさと三島』p.147 人馬継立(じんばつぎたて)江戸時代の旅は徒歩が主体でしたが、金持ちや身分の高い人が旅をするときは駕籠(かご)や馬に乗りました。 徳川家康により東海道に伝馬制(てんませい)がつくられ、宿場に問屋場を設置し人足と馬を用意することが義務づけられました。三島宿では初め36人36頭の常備義務でしたがその後100人100頭に加算され、更に200人200頭のときもありました。 公家(くげ)の荷物や幕府の公用物は宿場民が負担し、無料で運びました。初めのころは伝馬町、久保町、小中島町、大中島町の4町が負担しましたが、交通量が増えるに従い宿全町負担、更には近隣の村落に助郷(すけごう)として応援の人馬を負担させました。大大名の往来のときは奥伊豆からも人馬が駆(か)り出され、大変な負担で、農村疲弊(ひへい)の一因となりました。 定量以外のものや大名その他の一般物は決められた価格で運搬しました。しかし宿場用意の人馬には限りがありましたので、公用や大名、武家などの用が優先され、庶民は一般の人足(雲助と呼ばれた)に頼ることが多かったようです。 東は箱根を越えて小田原、西は沼津まで伝馬(継ぎ送り)しました。三島の伝馬役は往来も多く、箱根の坂道をひかえていたので大変な苦役(くえき)だったそうです。優秀な馬でも重労働のため2年以上の使用に耐えられなかったと伝えられています。この伝馬(輸送)に従事する人々が住んだのが伝馬町(現、大社町)です。 明治になり「伝馬役」が廃止されましたが、旅人に不便が生じたため、伝馬所と改め人馬継立を続け、その後は運送会社へと移行していきました。 → 雲助、問屋場 出典 『ふるさと三島』p.105、240 大部屋(おおべや)(人足部屋にんそくべや)問屋場の裏にあり、約50畳ぐらいの広さで土間の一部に筵(むしろ)敷きの板の間がある建物を、一般に大部屋(人足部屋)と称していました。ここで、ゴロゴロ寝ころんでいたり、博打(ばくち)を打ったりしている人足を、アゴで使っていたのが人足指(にんそくざし)と呼ばれる部屋頭です。賭場(とば)は四六時中開いており、部屋頭直属の者が掛け金を貸す代貸元(だいがしもと)の役や壺振(つぼふ)り役を務め、人足たちの労賃を吸い上げていました。無一文になった人足は部屋頭の指図に従い、宿駅労働に出ていくのです。どこからどこまでも搾取(さくしゅ)の連続という悪循環に縛(しば)られているのが、人足の実状でした。 幕府は、彼等を弾圧すれば宿継人馬(しゅくつぎじんば)は瞬時に停止してしまうので、公然黙認の賭場として警察権を行使できない状態でした。 出典 『三島市誌 中巻』p.455 雲助(くもすけ)宿駅や街道にいて駕籠(かご)かきや荷物運びをしていた住所不定の人夫のことを、住所が浮き雲のように定まっていないことから雲助と呼びました。 現在では雲助根性のように、ゆすりをはたらく下劣(げれつ)な根性という悪い意味で使用されることが多いようです。しかし、当時の箱根の雲助は強引な客引きもしましたが、力が強く荷造りが巧みで駄賃は客の求めに応じたため、急坂を急ぐ旅人には極めて便利な存在でありました。特に俗称・久助と呼ばれた雲助は人情味のある人だったらしく、箱根西坂に墓まで建てられています。 「竹になりたや箱根の竹に、諸国大名の杖竹(つえだけ)にヨオ〜」と歌われた素朴な雲助唄もあったそうです。 → 雲助徳利の墓、大高源吾の侘証文 出典 『ふるさと三島』p.241 お蔵場(おくらば)農民たちの供出した年貢米(ねんぐまい)は、一部を非常米として残したあとはすべて江戸へ送られていました。その間一時的に保管しておく倉庫があったところをお蔵場と呼んでいました。慶長(けいちょう)14年(1609)に、現在の日本キリスト教団三島教会(中田町)付近一帯にお蔵場が造られました。集められた年貢米は11月末ころに、大八車(だいはちぐるま)に1台当たり10俵積まれて南下し、江間(えま)を経て沼津の江の浦港へ。そこから千石船(せんごくぶね)で江戸の深川へ運ばれたそうです。また、三島においても年貢米の取りたては厳しかったようで、寛政(かんせい)や文政(ぶんせい)年間(1800年ころ)に書かれた、伝馬町や久保町などの住人による「年貢上納延期の陳情書」などが数多く残っています。 出典 『三島市誌 中巻 』p.187、『ふるさと三島』 p.152 旅籠(はたご)天下の険「箱根」を背後にして、三島宿は江戸時代大賑(おおにぎ)わいを見せていました。大勢の旅人たちがゆきかい、宿泊する旅籠は江戸時代を通じて70〜80軒はあったと思われます。旅籠は普通2階建てで、1階には帳場、調理場、湯殿、家族や従業員の住居があり、2階が客室になっていました。食事付きが一般的でしたが、旅人本人が調理する自炊(じすい)素泊(すど)まり風のものもあり「木賃宿」(きちんやど)と言われていました。 旅籠には平旅籠(ひらはたご)と飯盛旅籠(めしもりはたご)の2種類の営業方法がありました。平旅籠は建坪の広さから大中小の3種類があり、宿泊代も50文から1貫600文まで(注)と大きな差があり現代の旅館と同じです。 飯盛旅籠では建物の間取りは平旅籠と同じですが、泊り客を接待する女たちがいました。この女たちは宿場女郎、飯盛女郎と呼ばれ、一般に「三島女郎衆」(みしまじょろしゅう)と言われています。 (注) 一般庶民の宿泊代は平均200文程度と言われています。これを今の値段に換算 すると4,000円程度になると思われます。 出典 『三島市誌 中巻』 p.406、『ふるさと三島 』 三島女郎衆(みしまじょろしゅう)「三島女郎衆」の起源として、天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が小田原北条氏攻撃に際し、将士の休養のために女たちを与え慰安(いあん)したということが伝えられています。秀吉の命により三島へ集められた女たちは、かなり遠く京、大阪付近の人もいたそうです。 三島宿では、これらの女たちが宿場女郎、飯盛女郎としてかなり大勢働いていました。幕府は何度か、この種の女たちを置かないようにと規制しましたが、宿場側の激しい抵抗にあい、やむなく目をつぶっていたようです。 その後、この女たちは「三島女郎衆」と呼ばれ、農兵節にも歌われて東海道で有名になっています。 出典 『三島市誌 中巻』p.413、『ふるさと三島 』 p.56、68 本陣(ほんじん)
織部灯籠 慶長6年(1601)以降、徳川幕府(ばくふ)は東海道を含む五街道を整備し宿駅(しゅくえき)制度を作りました。 そして実質的な参勤交代(さんきんこうたい)(注)が始まると、行き帰りに必要な休泊施設と物資の継立(つぎたて)を、在地宿内の土豪(どごう)の有力者が請け負いました。世古本陣(世古六太夫せころくだゆう)は一の本陣といわれ、三島の宿では1番大きく、現在の石渡食品グルッペと第一勧業銀行辺り(本町2番地)にありました。本陣は、幕府公用の役人や参勤の大名のほか公家(くげ)などが休泊し、またこれに仕える武士が利用しました。銀行の左横に「世古本陣跡」の小さな石碑があります。当時の建物として唯一残る、世古本陣の門が芝本町長圓寺(ちょうえんじ)の山門(さんもん)に使われており、本陣家の宅神(たくしん)は、芝本町浅間神社(せんげんじんじゃ)境内(けいだい)に移された芝岡(しばおか)神社です。 樋口本陣(ひぐちほんじん)(樋口伝左衛門でんざえもん)は二の本陣といわれ、世古本陣と向かい合って街道の南側にあり、現在の山田茶舗(ちゃほ)店に「樋口本陣跡」の石碑があります。現在、樋口家は市内南本町(旧高台(たかだい))に住み宿場関係の貴重な文書(もんじょ)を所蔵しており、三島市郷土資料館にも多くの古文書(こもんじょ)を寄贈しています。 文化15年(1818)3月、宿場奉行所(しゅくばぶぎょうしょ)に出した古文書(こもんじょ)の中の本陣料理では、三島の豊かな湧水(ゆうすい)で作った「石焼きどうふ」が有名です。 当時の建物で残っているものとしては、樋口本陣の門が芝本町圓明寺(えんみょうじ)の山門に、庭園にあった茶室(不二亭(ふじてい))が三嶋大社に、織部灯籠(おりべどうろう)(キリシタン灯籠(どうろう))が樋口邸庭園に保存されています。 本陣料理 (注) 諸大名が1年おきに江戸に居住する制度。徳川第三代将軍家光が制度化した。 → 長圓寺、浅間神社、本陣料理、圓明寺、不二亭、 出典 『三島市誌 中巻』p.124、358 ハリスと三島幕末の日本に通商貿易を求めて訪れ、下田に領事館を置いたタウンゼント・ハリスは、将軍に謁見(えっけん)のため江戸へ向かう途中、安政4年(1857)10月9日通訳ヒュースケンと共に三島の世古本陣に泊まりました。そのころ本陣に泊まれるのは、将軍の名代(みょうだい)、勅使(ちょくし)、院使(いんし)、宮家(みやけ)、門跡(もんぜき)、公家(くげ)、大・小名、駿府・大阪・二条城御番衆(おばんしゅう)、奉行(ぶぎょう)、代官(だいかん)、目付(めつけ)、その他幕府(ばくふ)の公用者、御三家、大名の名代などで、一般的にそれ以外の者は泊まれませでした。 小さな築山(つきやま)や石のある庭には池があって、小径(こみち)には飛石をおいて靴を汚さないように工夫してあり、便利で清潔、非常に居心地が良く、下田の副奉行でさえも泊まることができなかった本陣での宿泊に、ハリスは大変感激したようです。 また、ハリスは三嶋大社に3両2分(注)を奉納したという記録が残っています。 (注) 現在の価額に換算すると26万円と思われます。 出典 『ふるさと三島』p.157、『Welcome to ふじのくに 三島』p.63 脇本陣(わきほんじん)参勤交代の諸大名や公用の勅使(ちょくし)、公家(くげ)など街道の往来が頻繁(ひんぱん)になると本陣の施設だけでは足りなくなり、天明年間(1781〜1788)になると三島には銭屋伊三郎(ぜにやいさぶろう)、綿屋伊兵衛(わたやいへい)、大和屋善蔵(やまとやぜんぞう)という3軒の脇本陣が設けられました。 本陣には将軍の名代、勅使、公家、大名など公用の人しか泊まれませんでしたが、脇本陣には誰でも泊まれました。大大名の参勤交代などのとき、本陣のみでは収容しきれない重役衆を受け入れたりしますが、一般の人はもちろん金持ちの商人、物見遊山(ものみゆさん)の富裕者を休泊させたので、本陣よりも経営は楽だったようです。 → 本陣 出典 『ふるさと三島』p.160 広小路火除け土手(ひろこうじひよけどて)江戸時代の三島宿に家・屋敷が建ち並び人々が多く集まり始めると、火事による類焼が非常に恐いものとなってきました。そこで火事を一定の場所で食い止め延焼を防止するため、火除け土手(食い違い土手)が現在の三島広小路駅付近から時の鐘辺りの両側にかけて築造されました。 しかし、正徳(しょうとく)年代(1711〜1716)になり町が更に発展すると、土手は邪魔(じゃま)になり始めました。そこで、朝鮮人使節の来日を機に道路整備を理由に、この食い違い土手を千貫樋(せんがんどい)の坂の上に移転しました。現在では、火除け土手の跡は全くありません。 出典 『三島市誌 下巻』p.8
|