親不知地蔵

親不知地蔵
箱根峠付近にある「親しらず地蔵」の通称は「かっけ地蔵」。街道を行く旅人たちが、道中の安全と健脚を祈願した地蔵尊です。
伝説によれば「一人の雲助が旅人を襲って殺害し財布を抜き取ったところ、それは家出した自分を捜しにやって来た自分の父親。後悔したが時すでに遅く、雲助は罪の深さに自害した。
この親子の不幸なめぐり合わせに同情した土地の人々が一基の墓を作り、手厚く親子の霊を慰めた」と伝えています。

雲助徳利の墓

雲助徳利の墓
山中城跡から上りの石坂道にかかる付近に、徳利と杯を意匠にした珍しい石塔があります。これは通称「雲助徳利の墓」と呼ばれているお墓。
伝説によれば、「一人の酒好きの雲助が亡くなったが、生前から土地の人々に親しまれていたために、徳利と杯を配した墓を建て供養したものである」と伝えています。

石畳

石畳
旧東海道の箱根西坂には石が敷き詰められた道が続き、通称「石畳」と呼ばれています。
関東ローム層の赤土に覆われた箱根は、雨の度に土がぬかるみ、歩行が極めて困難になるということが重なり、初期のころの東海道には伊豆一円の助郷により竹が敷きつめられていました。
しかし、延宝八年(1680)、竹道は石道に変わり、助郷の労苦も減少し、歩きやすい道となりました。
以来、天下の険は「箱根石畳」として知られるようになりました。

松並木

松並木
箱根西坂の登り口付近に続く松並木は、近世の東海道の風景を想像させる史跡です。
街道に松並木を植えさせたのは幕府であり、敵の侵入を防備するためなどの説もありますが、『武江年表』によれば、創設は慶長九年(1604)、夏は木陰を作り旅人を憩うところとさせた、と記されています。

新町橋

新町橋
新町橋は、三島宿の東を流れる「かん川」に架かる橋です。江戸へ下る旅人は、この橋を渡るといよいよ難所の箱根の坂へ向かうことになります。
反対に京へ上る旅人にとっては、橋を渡ると「やれやれ」と一息つける三島宿に到着することになります。

龍澤寺

龍澤寺
龍澤寺は、三島宿北部の集落、澤地にある臨済宗妙心寺派の名刹です。山号は円通山。本尊は子安観世音菩薩です。宝暦十一年(1761)、臨済宗の名僧として知られる白隠禅師により創建されました。
記録によれば、古くからあった真言宗の寺を移して創建したと伝えています。後世、龍澤寺からは東嶺禅師、戦中戦後に活躍した玄峰禅師など、多くの名僧が輩出しています。

接待茶屋

接待茶屋
「天下の険」と言われた箱根は、関所があることや、人や馬もあえぎあえぎ急な坂を越したことから、こう呼ばれていました。
箱根接待茶屋は、そうした山越えの苦労を目にした江戸の商人加勢屋與兵衛が、基金を拠出して始めたものだといわれています。
その後、茶屋の運営は多くの篤志家たちに受け継がれ、昭和45年まで続けられていました。
現在では、国道拡張工事によって、かつてあった位置から家屋は移転されてしまいました。

芝切地蔵

芝切地蔵
山中新田集落下にある「芝切地蔵尊」は、さまざまな病気平癒祈願の地蔵尊として知られています。
縁日は七月十九日。かつては地元をはじめ、沼津や裾野などの広域から参拝者が訪れ、名物の小麦まんじゅうを食べたといわれています。
地蔵尊の言い伝えには、「ある旅人が、旅の途中、山中新田まで来て病気にかかり亡くなってしまった。旅人の遺言により芝を積み地蔵尊を祀って霊を慰めた」という話が残っています。

一里塚

一里塚
箱根西坂には接待茶屋付近、笹原新田集落付近、塚原新田集落下付近、と三か所の一里塚があります。
一里塚の創設は慶長九年(1604)。街道一里ごとの道の両端に高さ三尺五間四方の盛り土を築き、その上に榎を植えさせたもので、往還の距離を標す役割を果たしていました。
現在、一里塚の残っている所は少なくなり、塚原下のように街道両側に残っている場所は珍しい例です。

かん川

かん川
かん川を漢字で書くと神の川。
三嶋明神の御神領地である社家村近くを流れていることからつけられた名前なのでしょう。
現在は「大場川」と呼ばれていますが、土地のお年寄りには、「かん川」の方がなじみ深いようです。

妙法華寺

妙法華寺
妙法華寺は三島宿の東、箱根山麓の玉沢にある日蓮宗の名刹です。
この寺は、鎌倉の地に日蓮上人の高弟、日昭上人が創建したのが始まりで、その後、鎌倉の材木座、越後の国村田の妙法寺、伊豆の国加殿の妙国寺などの変遷を経て、徳川二代将軍秀忠の時代に朱印地の寄進を受け、当時、大木沢と呼ばれていた現在地に定着しました。

秋葉神社

秋葉神社
三島宿の西はずれ、現在の加屋町に秋葉神社があります。「秋葉さん」と呼ばれ火よけの神様として知られます。
記録によると、貞享2年(1685)はとくに大きな火災だったと伝えられます。この時には、伏見村(清水町)からでた火が、三島宿全体と三嶋大社にまで及んだそうです。
加屋町の「秋葉さん」は、たびたび起こる西風による大火の災害から宿場を守ろうと、宿の代表者によって寛政5年に創建されました。

見付

見付
三島宿には宿場東入り口の新町橋付近と西入り口の千貫樋付近の2ヵ所に、石塁型の枡形見附がありました。
また古絵図には南の二日町付近と明神北付近にも見附が描かれていました。
見附の意味は元々城門のことで、ここに桝形には大木戸が付随しており、明け暮れの六つ時に開閉するのを原則としていました。

福井雪水の墓

福井雪水の墓
妙行寺には、幕末の三島で漢学塾を開き、多くの門人を世に送り出した漢学者福井雪水の墓があります。
塾があった場所は寺にほど近い長屋でしたが、現在は跡形も残されていません。
また、妙行寺の山門は、明治期の小松宮家別邸の門を移築した由緒あるものです。

八小路

八小路
三島宿は旅籠や本陣が並んでいた東海道の南北両側に細い小路が何本もあり、さまざまな職種の人々が生活を営んでいました。
八小路と呼ばれた細小路は特に親しまれた小路で、この名をそらんじて言えることが、三島宿住人の証拠だといわれていたこともありました。
八小路とは、桜小路、竹林寺小路、上の小路、下の小路、阿奢梨小路、金谷小路、菅小路です。

三嶋大社

三嶋大社
伊豆一宮の三嶋大社は、三島はもちろんのこと伊豆一円の信仰を集める神社です。
正月七日の「お田打ち」、二月の「節分祭」、八月の「例大祭」には多くの善男善女が参拝に訪れます。
中でも大晦日から正月三日にかけての初詣の人出は、静岡県下一を誇っています。

陣屋

陣屋
現在の三島市役所の所在地は、江戸時代、三島代官所が置かれたところです。
江戸中期の宝暦年間、韮山に代官所が移転した後は、代官所の任務を補う役所、陣屋が置かれました。
現在はかつての周囲に積まれた石積みの跡や、陣屋稲荷と呼ばれた小さな祠が残るのみとなっています。

祓所神社

祓所神社
現在の三島市役所の所在地は、江戸時代、三島代官所が置かれたところです。
江戸中期の宝暦年間、韮山に代官所が移転した後は、代官所の任務を補う役所、陣屋が置かれました。
現在はかつての周囲に積まれた石積みの跡や、陣屋稲荷と呼ばれた小さな祠が残るのみとなっています。

間眠神社(まどろみじんじゃ)

間眠神社
間眠神社は、東本町、かつての三島宿の南はずれに鎮座しています。
かつて源頼朝が蛭が小島で流人生活を送っているころ、三嶋大社へ百日詣での参拝の帰り、ここにあった松の木下で休み、まどろんだということが神社の名になったと伝えられています。
この神社では例祭の8月1日に韮山の長崎地区から長さ一間半(約2.7メートル)、胴の太さ六尺(約1.8メートル)という大注連縄が奉納されています。

三嶋暦師

三嶋暦師
三島暦は江戸時代以前から三島の河合家で発行され、伊豆、相模、武蔵などの国々に頒布されてきた伝統的な暦です。
河合家は三嶋大社周辺の旧社家村に居住し、現在までに五十数代を続いた由緒ある家柄でしたが、明治五年の太陽暦改暦によって、暦師の歴史に幕を閉じました。
近世の三島宿では、旅人誰もが三島土産に求めるという、全国に知られた三島ならではの名物であり、三島から発信された文化情報源の役割を果たしていました。

下田往還

下田往還
三嶋大社鳥居前を基点に下田まで延びる道を下田往還と呼んでいます。
この道は、古代、三嶋明神の神が渡来した道であり、伊豆の人々を三島に迎え入れた道。
近世には伊豆の炭や山葵などを運ぶ産業道路でもあり、代官による伊豆支配の役割も担っていました。

高札場

高札場
三島宿の高札場は三嶋明神前にあり、高札が掲げられ、幕府から出された法度、掟書、人相書などが出されていました。
現在、県庁や市役所前などに掲げられる公示公告書は、高札場の伝統を引くものといえましょう。

祓所川

祓所川
祓所川の源流は、白滝とその上流にある菰池の二つの湧水池です。
祓所神社脇を流れることからついた川の名ですが、現在では「桜川」と呼ばれるようになりました。
三島石を組んで築かれた川の土手には、沿線の家々が流れを屋敷内に取り込んで利用していた穴が残り、かつての清流を偲ぶことができます。

甲州道

甲州道
三嶋大社西側の道を北に向かうと、裾野市や御殿場市を経て甲州方面へ行くことができます。
昔からこの道を「甲州道」と呼んでいました。宿の北のはずれ近くには通称「北口」という地名があり、付近には甲州武田軍の残した「鎧坂伝説」なども残されており、三島と甲州地方の結びつきをうかがうことができます。