(第94号) ~三島の中世末期を語る~ 川口家先祖の図 (平成7年5月1日号)

川口家先祖の図
 郷土館では、企画展「三島の成り立ち」(平成7年5月7日まで)を開催していました。展示では、三島が成立した自然環境をはじめ古代から中世にいたるまでの歴史的変遷を、歴史地形図やさまざまな資料で分かりやすく解説していました。

   ところで、展示品の一点に、(伝)故信上人筆、賛の「川口家先祖の図」(絹本着色)という絵画があります。僧衣をまとった男女が向かい合うように座る姿が描かれ、中央には「南無阿弥陀仏」の六字名号が記されています。川口家(加屋町)に伝えられるもので、これは三島の中世の一時代を画する重要な一点であろうと考えられます。  

 筆者の故信上人について、川口家の菩提寺である林光寺(加屋町)の由来には次のように伝えられています。  「甲斐(現在の山梨県)の武田勝頼の弟信景は、弘治3年(1557)母の願いに応えて同国山梨郡国坂帰命院岌往上人の下で得度したが、永禄9年(1566)に遠江国相良山梨(現在の相良町)に逃れ、後、天正2年(1574)には三島に移り、人びとに念仏説法して教化に努めた。天正4年(1576)頃、武田氏の家臣である川口出雲ら七家臣が故信上人を追って三島に入り、武田家の再興をはかった。しかし上人はこれを承諾しなかったばかりか、かれらに世の無常を説き、家臣はこれに感じて、故信上人を開基として盛りたて、林光寺を起こした」

 川口家には、この時の先祖が描かれているのが本資料であるとの伝えがあります。

 古くから街道の要衝の町として発展してきた三島でしたが、中世末期における甲斐国との関わりは深く、その後の三島の歴史に大きな影響を与えたものです。その一例が川口家をはじめとした武田家臣団の三島定着といえるでしょう。

 いわゆる、甲州道と呼ばれてきた道を通じて、以後、人々のみならず種々の民俗、習慣などの文化の流入が知られています。
(広報みしま 平成7年5月1日号掲載記事)