(第139号) ~箱根西坂5ヶ新田の連絡に使われた~ 富士屋自動車の電話  (平成11年12月1日号)

富士屋自動車の電話
 三島に電話が開設されたのは1908年(明治41年)の事。しかし、箱根西坂地域への家庭用電話の敷設は戦後になります。

 明治時代、西坂の五ヶ新田(塚原、市ノ山、三ツ谷、笹原、山中)は東海道線(御殿場経由)の開通の影響で、箱根越えの旅客がいなくなり、寂れる一方でした。しかし、1923年(大正12年)石畳敷きの東海道に変わり、「箱根新道」(国道1号線)が開通し、バスやトラックで三島・箱根・小田原への通行が可能となりました。

 箱根は温泉の湧く保養地でしたが、明治以後風光明媚な観光地として外国人たちの脚光を浴びます。大正時代に入ると東坂の箱根町には登山電車・ケーブル鉄道が開通。また1914年(大正4年)外国人専用であった富士屋ホテルがホテル客専用の自動車を提供する目的で富士屋自動車を設立します。後にしゃれた乗合自動車を運行して箱根観光の大衆化をはかりました。箱根新道が開通するとまもなく、1924年(大正13年)富士屋自動車は沼津―三島―箱根宮ノ下間の乗合自動車の運行を始めます。
鉄道の客を箱根に運ぶためのバスでした。

 「弁当箱」と呼ばれた数人乗りのバスにはズボンをはいたバスガイドが乗っていました。西坂の五ヶ新田にもバスの停車場ができ、乗客がいるときは旗を出して合図したといいます。西坂地域から三島まで1人四十銭から五十銭という料金は庶民には高嶺の花で、乗る機会はあまりなかったようです。

 写真は塚原小針家にあった富士屋自動車バス連絡所の看板と連絡用電話です。連絡所は五ヶ新田に各一ヶ所ずつ設置され、濃霧のための運休や、遅れなどの連絡に使用されました。バス連絡専用のため、一般家庭にはつながっていません。このため、集落で急病人が出た時、唯一つながる三島駅へ電話を入れ、駅から病院へ連絡してもらいました。夜中の緊急連絡がたび重なり、駅員からは「夜ゆっくり寝られない」と不満が出たといわれます。

 戦争中は砲兵隊専用電話となり、戦後昭和30年代に農集電話が引かれるまで、西坂住民の命をつなぐ電話として活躍しました。
(広報みしま 平成11年12月1日号掲載記事)