(第167号) ~三島と朝鮮半島の歴史(3)~ 朝鮮皇太子と楽寿園・李王世子賞  (平成14年4月1日号)

 最も親密な国だった日本と朝鮮半島は、明治維新後、一変します。欧米諸国に追いつくことを目標とした明治政府は朝鮮半島への侵略・植民地化を押し進めていくのでした。
 明治43年(1910)日韓合併条約により、李氏朝鮮王朝が廃され、朝鮮半島は、日本政府が権力を持つ朝鮮総督府の支配を受けることになったのです。
 この時の李氏朝鮮最後の皇太子が李王世子(皇太子のこと)垠(ぎん)殿下でした。殿下は明治40年(1907)に皇太子に立てられ、日本留学の目的で来日されます。わずか11歳、実質的な人質でした。祖国や父母から離され、以後およそ50年間日本の皇族として生きることになるのです。
「日韓のかけ橋となる」という美名の下に、日本人化の教育が施され、陸軍幼年学校・陸軍大学へ進まれます。大正9年(1920)日本の皇族梨本宮正子姫とご結婚。
 家庭の安らぎを得られますが、翌年誕生された長男を京城(ソウル)に帰国された時に失います。
 死因が判明せず、朝鮮情勢の犠牲者と考えられています。ご夫婦の落胆は大きいものでした。
この年の夏、傷心のお二人は、別邸となっていた現在の楽寿園に滞在、休養をとられています。富士山からの湧水が湧き出る小浜池の水が心地よく、悩みも薄らいでいったようです。
 楽寿園は小松宮彰仁殿下の別邸でしたが宮の薨去後、垠(ぎん)殿下の別邸となったものです。
 殿下が十代の頃はよく三島に見えていたようで、腕白な三島っ子が夏、柵を潜り抜け小浜池に侵入してもニコニコと眺めていて、時には菓子をいただいた子もいたとか。殿下の暖かい人柄が伝えられています。
 また、当時小浜にあった三島高女(現、三島北高)の成績優秀卒業者に大正3年より「李王世子殿下恩賜賞」が贈られていました。これは、殿下が金百円を下賜されたものを基とした賞で、賞品は蒔絵の立派な硯箱でした。(写真)  この硯箱をいただくことは生徒にとって大変な名誉でした。
(広報みしま 平成14年4月1日号掲載記事)

蒔絵の硯箱