(第30号) 藍甕と三島の紺屋 (平成元年12月1日号)

 藍甕を展示しています。尖底型の炊き物の大甕。ロ縁部の径は七十センチ、深さは八十センチ。大人一人が腰を落とせば楽に隠れるくらいの大きさです。甕の内壁には、カラカラに乾燥した藍が厚い層になって付着していて、かつて、この中で藍が建てられていたことを物語っています。この藍甕は、三島の古くからの紺屋(こうや)で使っていたもので、今はその役目を終えたものです。
 水がきれいで豊富だった三島には、昔、何軒もの紺屋とその下職がありました。水を使う紺屋は町中を流れる源兵衛川、御殿川、桜川の清流沿いに軒を並べて店を構え、糊置き屋、型屋、下絵屋などの下職は紺屋の周辺に店を構えていました。古老に聞いた明治から大正にかけての紺屋とその下職の数は、三島の旧町内だけで二十軒を超える店が確認できました。この数字は、三島を染物の町だと言っても良い数字だと言えましょう。
 紺屋の設備は藍甕が主。広い土間にはたくきんの甕が藍を湛えて並び、甕の中では藍がほどよく醗酵していました。醗酵させることを建てると言います。建てた藍は生き物と同じです。寒い冬には炭火で暖めるなど、その扱いには熟練を必要としました。「酒杜氏(酒をつくる人)は在っても、藍杜氏(藍をうまく建てられる職人)は無い」と、藍を建てることの難しさをたとえたものでした。
 三島の紺屋で染めた藍は、端午の節句の武者絵幟や、嫁入り用の鶴亀模様や松竹梅模様のふとん生地、またある時は仕事着のはっぴや半てんを彩りました。つまり、三島の紺屋は、三島やその周辺の町や村の人々の衣生活を潤す大事な役を担っていたものです。
 紺屋の減少は、大正期以後の化学染料の発達普及によると言われます。簡単に染まり、色の落ちにくい便利さの替わりに、私たちは伝統的な藍の色を失いました。
(広報みしま 平成元年12月1日号掲載記事)