(第393号)地域の歴史 谷田(令和3年2月1日号)

 今回は箱根山の西麓、大場川の左岸に位置する谷田について紹介します。

 「谷田」の地名は、「矢田」という表記で鎌倉時代以降の古文書に見ることができます。江戸時代には、現在の谷田・柳郷地(やなぎごうち)・錦が丘・松が丘・竹倉に当たる地域が「谷田」と呼ばれていて、その中に谷田・棗木(夏梅木/なつめぎ)・小山・御門・竹倉の五つの集落が形成され、「谷田五箇(ごか)」と呼 ばれていました。この地では、旧石器時代から人々が生活を営んでおり、各時代の人々の足跡を示す多くの遺跡が確認されています。

 錦が丘団地北西に位置する夏梅木古墳公園は、「夏梅木古墳群」という遺跡の一部を公園として整備したものです。一帯には、時代の流れとともに消滅してしまったものも含め、二十余基から構成される古墳群があっ たと推定されています。平成2~3年にそのうちの円墳8基の発掘調査が行われ、6世紀末~7世紀前半(古墳時代後期~終末期)に築造された古墳群であることが明らかになりました。前面に広がる肥沃な湿地を経済 基盤とする複数の集団が、墓域として利用していたのでしょう。

 公園内には、第6号墳を新たな石材を補って復元しています。調査時には、墳丘のごく一部と横穴式石室(墳丘側面から出入り可能な石室)・石棺、羨道(せんどう)・墓道(棺を納める空間までの通路)と周溝(しゅうこう/墳丘を囲む溝)が残っていました。周溝の規模・形状からして直径約11mの円墳であったと推定されています。

 石棺の内部および石室内からは、耳飾りが2セット発見されました。したがってそこには、二人の被葬者(ひそうしゃ)の存在が想定されます。つまりは追葬という、先に葬られた一体を動かしてスペースをあけ、二人目を安置する行為があったものと考えられます。

 石棺東側からは須恵器(すえき)の提瓶(ていへい/液体用の容器)と台付の碗(わん)が出土してお り、両者はそれぞれ異なる時期に製作されたものです。この二つの資料が主な根拠となり、第6号墳は6世紀末に築造され、7世紀前半まで追葬もしくは祭祀が行われた円墳であると位置付けられています。  

 この円墳からはその他にも、馬具や飾大刀(かざりたち)・鉄鏃(てつぞく/矢の先端部)といった武器類が出土しています。鏃は基本的に男性のみに副葬されるといわれており、二人の被葬者のうち、少なくとも一人は男性であったのでしょう。第6号墳の出土遺物は郷土資料館3階に展示してありますので、ぜひ実物をご覧になり、1400年前の先人たちが葬られた景観に想像を巡らせてみてください

夏梅木6号墳

夏梅木6号墳


夏梅木古墳(復元)

夏梅木古墳(復元)



【広報みしま 令和3年2月1日号掲載記事】