(第427号)郷土ゆかりの映画監督、五所平之助(令和6年1月1日号)

 今回は三島にゆかりのある映画監督、五所平之助(ごしょ へいのすけ)氏(1902~81)と、最後の作品『わが街三島1977年の証言』について紹介します。

 明治35年、東京に生まれた五所平之助監督は、21歳の時に松竹(しょうちく)鎌田(かまた)撮影所に助監督として入社し、23歳で監督デビューしました。原題劇の新鋭監督として同世代の中でいち早く頭角を現し、29歳で日本映画初の本格的トーキー(発声映画)『マダムと女房』(1931年)を制作しています。その後も『恋の花咲く伊豆の踊子』(1933年)など次々とヒット作を生み出し、名監督の名を不動のものとし、『煙突の見える場所』(1953年)でベルリン国際映画祭平和賞を受賞しました。日本映画の草創期、サイレント(無声映画)時代から戦後の黄金時代を駆け抜け、およそ半世紀にわたって日本映画界で活躍し続けた五所監督は、生涯99本もの作品を残しました。

 そんな五所監督の最後の作品が『わが街三島1977年の証言』(1977年)です。この映画は三島市民サロンの依頼によって撮影された30分程度のドキュメンタリーです。

 源兵衛川の湧水復活に尽力した窪田精四郎(くぼたせいしろう)氏や児童文学作家の小出正吾氏、詩人・評論家である大岡信氏らとともに五所監督自身も出演しており、子どもたちにやさしく語りかける姿が印象に残ります。

 五所監督と三島とのつながりは、再婚した夫人の縁で昭和28年に三島市に移住したことから始まります。歳は51、後半生を三島で過ごすことになりました。五所監督は若い仲間と意見を交わすことを好み、三島駅近くの小料理屋「やっこ」でよくお酒を酌み交わしていたようです。その交流の中から昭和49年に「三島市民サロン」が設立され、顧問を引き受けることになりました。三島市民サロンはさまざまな分野で活動する人たちの講演会や映画上映会の開催を活動の主体としており、昭和58年に活動を終えるまでの10年間で、延べ63人の著名人を講師に迎えた講演会を開き、40本の映画を上映しました。

 そうした活動の中で、みんなで映画をつくりたいと、顧問である五所監督を頼って制作されたのが『わが街三島1977年の証言』です。当時、湧水の枯渇や水辺環境の悪化が進んでいたことから、かつて「水の都」と呼ばれた三島の歴史と水質汚染の問題を柱として制作されました。この映画は、三島において環境保全活動を活発化させるきっかけにもなり、現在も多くの市民団体や事業者が行政と協働して進める「街中がせせらぎ事業」などの活動につながっています。

わが街三島パンフレット表紙

▲パンフレット『わが街三島1977年の証言』



【広報みしま 令和6年1月1日号掲載】