(第405号)地域の歴史―新谷―(令和4年3月1日号)

 今回は中郷地域に位置する新谷(あらや)についてご紹介します。

 新谷地区は中郷温水池(なかざとおんすいち)の南、源兵衛川の流末地域に位置します。ここから河川は中郷地域の耕地の灌漑(かんがい)用水として分流しています。このような立地の新谷は水の豊富な地域で長い間純農村地帯でした。

 江戸時代当初は幕府領、後に二つの旗本家の相給地(あいきゅうち)となり、村高は三百石でした。もとは東に接する青木村の一部で、そこから分村してできた集落のようです。新谷ではなく「新屋」と記されている文献も見受けられます。つまり、新屋という表記は新しい家屋、開発集落地であることをうかがわせてくれま す。

 農作業の都合から、集落の中心を流れる「御園堀(みそのぼり)」という用水路の両側に定住したものらし く、はじめは7~8戸と小規模な集落だったといいます。また、堀の東の古い集落を「畑屋敷(はたやしき)」、西の分家・新世帯により形成された集落を「田屋敷(たやしき)」と呼んでいたようですが、この呼称について詳細を知る人は、今はいないとのことです。

 新谷の氏神は稲荷神社で五穀豊穣の神である稲倉魂命(いなくらたまのみこと)を祀っています。元禄16年 (1703)12月、山城国(やましろのくに/現京都府南部)から勧請(かんじょう)したといわれ、宝暦12年(1762)1月、同社は本山の京都伏見稲荷から位階を贈られています。
稲荷神社(新谷)

稲荷神社



 この神社はやや小高いところに鎮座しています。これは御園堀から分流する新谷用水の水路を作った時に出た土砂を盛りあげたものだといいます。地元の方の話だと、この小丘を「海苔塚(のりづか)」と呼ぶそうです。

 稲荷神社の北方の村境には山神社があります。大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀り、1月と9月の17日には例祭が行われます。

 山神社の境内には「土塚(つちつか)様」と呼ばれる石碑があります。これは江戸時代の地誌『豆州志稿(ずしゅうしこう)』にある新谷の「山伏塚(やまぶしづか)」であると思われます。現在、境内の片隅に石碑があり、「権大僧頭清国院」と刻まれています。しかし、地域の方から、子どものころはもっと大きな石碑があった気がするとの話も伺ったので、「土塚様」が現在ある石碑を指しているのかは定かではありません。もしご記憶の方は、郷土資料館までご連絡いただけると幸いです。
土塚様(新谷)

「土塚様」といわれる石碑



【広報みしま 令和4年3月1日号掲載記事】