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三島ゆかりの作家とその足跡

文豪(ぶんごう)たちと三島

俳句革新(はいくかくしん)
正岡子規(まさおかしき)と相模屋(さがみや)

 明治25年(1892)10月14日、俳句創作に没頭することを決意した子規は箱根を越えて三島に入り、三嶋大社にぬかずき、現在のみしまプラザホテルの場所にあった相模屋に泊まりました。

   三島の町に入れば小川に菜を洗う女のさまも
               ややなまめきて見ゆ
の歌を詠み、『旅の旅の旅』の紀行文を残しています。

島崎藤村(しまざきとうそん)と名作 『春(はる)

島崎藤村の写真 
 明治26年(1893)7月に吉原宿で遊び、友人の北村(きたむら)透谷(とうこく)、平田禿木(はげき)戸川秋骨(しゅうこつ)と沼津から円太郎馬車で三島にやってきて、三島で昼食をすませて箱根路へとたどっています。明治40年(1909)の6月には箱根から三島に下り、沼津までチンチン電車にゆられています。翌年4月から朝日新聞連載の『春』の取材の旅でした。
 


若山牧水(わかやまぼくすい)の三島散策(さんさく)

 若山牧水の写真
 大正9年(1920)8月15日以降、沼津に住んだ牧水はたびたび三島を訪れています。三嶋大社に7度ほど詣(もう)でて、広小路の料亭で鰻(うなぎ)料理を楽しんでいました。楽寿園南側の塚田静保病院長が主治医で、長旅に出るときは必ず相談に寄っていました。紀行文『箱根と富士』の中の三島の町の風景は印象的です。

三嶋大社に三島民報社が建立した

 野末(のずえ)なる三島の町のあげ花火
    月夜の空に散りて消ゆなり
の歌は、大正10年(1921)に沼津の上香貫から三島の夏まつりの花火を歌った歌です。

 残念ながら三島を歌った歌はこれ1つです。


清流のまちと慕情(ぼじょう)の作家(さっか)たち

戦後文壇(せんごぶんだん)の寵児(ちょうじ)
大岡昇平(おおおかしょうへい)

 
 『俘虜記(ふりょき)』『野火(のび)』の戦争体験や『武蔵野(むさしの)夫人』で戦後文壇に一時代をしるした大岡昇平は、昭和34年(1959)の名作『花影』の中で主人公を三島育ちの女性として、三島の街とせせらぐ清流を魅力的に描いています。

桜川通りの井伏鱒二(いぶせますじ)のエピソード


 昭和9年(1934)、太宰治と元箱根から三島に下ってきた井伏鱒二は、桜川通りの水門近くの骨董(こっとう)屋「五味」の店でひどく驚かされて白滝公園まで逃げる話を随筆『太宰治』の中で書いています。本町辺りの居酒屋「伊豆一」でのやりとりも、当時の三島の雰囲気があっておもしろいものです

太宰治((だざいおさむ)の心の中に残る三島

 
 泉町の坂部武郎酒店に居候(いそうろう)をした太宰治は、『老(アルト)ハイデルベルヒ』や『ロマネスク』の中に三島を縦横に描いています。坂部さんの妹、愛子さんに気兼ねし、泉町の松根印刷会社の2階に夜だけ泊まる生活を続けていました。『満願』に出てくる喫茶店は、広小路のララ洋菓子店で、店の菊川千代子さんに対する太宰の好意の逸話はほほえましいものがあります。

  

太宰 (だざいおさむ)

                       沼津志下に滞在中の太宰治
                                        (右端)
                             
小説家
明治42年〜昭和23年

(1909〜1948)
太宰治の写真

 青森県津軽生まれ。中学のころから同人誌に作品を発表し、東京大学仏文科に進みました。 三島には昭和9年(1934)、25歳の時にひと夏滞在しました。当時はまだ学生の津島修治で、それまで3度の自殺未遂をくり返し、その後も薬物中毒に悩まされていました。しかし『ロマネスク』の執筆をきっかけに、小説を書いていこうという運命を思い、「それから8年間の創作は全部、三島の思想から教えられたものであると言っても過言でない程、三島は私に重大でありました。」と後に述べています。三島を舞台に書かれた作品では、生きる明るさが感じられます。38歳のときに沼津の三津浜で『斜陽』の1部を執筆し翌年『人間失格』を書いた後、東京の玉川上水で自殺しました。

三嶋大社周辺の文学

三嶋大社を舞台とした井上靖(いのうえやすし)の小説 

井上靖の写真 三嶋大社の前の間宮家から沼津中学(現、沼津東高)へ歩いて通った井上靖は、作品『夏草(なつくさ)冬涛(ふゆなみ)』の中に父隼雄の姉、宇米さんの愛情を書き、『しろばんば』や『あすなろ物語』の中に三島の町や三嶋大社の祭りの夜の風景を楽しく描いています。現在実妹の石川静子さんが谷田に住んでいます。
   井上 靖
 
   

新田次郎(にったじろう)の数々の名作と
三嶋明神(みしまみょうじん)


 昭和7年(1932)前後に富士山気象台勤務の新田次郎は、三島の気象台とも行き来がありました。『武田信玄』『武田勝頼』『新田義貞』などの中に三島宿や三嶋明神をいく度も登場させています。『からかご大名』は、『言成地蔵』の小菊哀話が題材で、その資料は新田次郎が小出正吾から借りたものです。

三嶋大社を歌う歌人穂積忠(づみきよし)

   この森の朝光(あさかげ)深し宮司来て
        ぬれし落葉を焚きそめにけり


 昭和23年(1948)から三島南高校の校長であった穂積忠は歌集『雪祭』『叢(くさむら)』の2巻の中に、三島の魅力をさまざまに歌いあげています。
 韮山中学(現、韮山高校)ではルーテル先生、かぶら先生とも呼ばれ、三島南高の悪童
(あくどう)たちはライオン先生のニックネームで親しんでいました。「我が歌の師は北原白秋,我が学問の師は折口信夫(おりくちしのぶ)」の口ぐせは今も耳目に新しいところです。

富士山や名園楽寿園(らくじゅえん)を描く作家たち

富士山と三島駅を書いた立原正秋(たちはらまさあき)

 
 古典美と、滅びゆく世界を書いた立原正秋は、名作『きぬた』の中で、主人公の縫(ぬい)を三島に生活する女性として描いています。富士山の雪解け水の清冽(せいれつ)さと、三島の新幹線ホームからの富士の秀麗(しゅうれい)な姿を描き、かなりアイロニーに富んだ描写もあります。 

東海の名園を歌う窪田空穂(くぼたうつぼ)

窪田空穂の写真

   富士が根につもるらし雪忍水(おしみず)
         なりて湧き来るこの大きな池


 歌壇の大家として明治、大正、昭和を生きぬいた窪田空穂は、楽寿園の歌を昭和30年(1955)発行の『卓上の灯』の中に歌っています。


   かかる日に見んと思へや久しくも
         訪はんと言ひし大岡が家


 旅の途中で病にかかった空穂が三島の門人の大岡博に付き添われて東京に帰るときの歌で、空穂の大らかな歌も貴重な三島の財産です。
 

托鉢僧(たくはつそう)と緑濃き龍澤寺(りゅうたくじ)

龍澤寺と入江長八(いりえちょうはち)を描く
橋本英吉(はしもとえいきち)

 大仁町に住んで、名作『富士山頂』を発表した橋本英吉は、『寵児(ちょうじ)の生涯』の中で入江長八が名刹(めいさつ)の龍澤寺での作品を創りあげるまでを小説化しています。 

『白隠(はくいん)』に龍澤寺を描く水上勉(みずかみつとむ)

 『雁(かり)の寺』『飢餓(きが)海峡』『五番町夕霧楼(ゆうぎりろう)』の水上勉は、作品『白隠』の中で、三島の沢地の風景と龍澤寺を描いています。

 

中川宋淵(なかがわそうえん)老師の俳句と執筆活動

 中川宋淵老師は飯田蛇笏(いいだだこつ)門下の俳人として活躍します。俳句雑誌の『雲母』の同人です。

   寒月や耳光らせて僧の群
   寺の樹々さゆらぎもなく星合ひぬ


 などの作品をおさめた『詩龕(しがん)』『命篇』の詩文集があります。

戦後派(せんごは)作家3巨匠(きょしょう)
三島のエピソード

 三島由紀夫(みしまゆきお)のペンネーム伝説

 憂国(ゆうこく)割腹(かっぷく)の衝撃の作家三島由紀夫は三島には土地勘がありました。昭和19年(1944)に沼津の海軍工廠(こうしょう)(現在の沼津北口の明電舎周辺)に勤労動員をしていて、三島にも立ち寄っています。

 昭和16年(1941)の5月、『花ざかりの森』を雑誌に掲載するとき、本名の平岡公威ではいかにもかたいとして、恩師の清水文雄が修善寺の新井旅館からの帰り、電車の中で「三島に向かっているから三島」そして「三島駅からの雪を頂
(いただ)く秀峰(しゅうほう)富士にちなんで由紀夫」と名付けたそうです。

  これは清水文雄が雑誌『文芸文化』の誌上で語り、評論家の奥野健男の『三島由紀夫伝説』の中にも証言があります。
三島由紀夫と掛川市出身の演出家・松浦竹夫(右)
三島由紀夫と松浦竹夫の写真


三島に遊んだ国民的文学者の司馬遼太郎(しばりょうたろう)

  国民的文学者として多くの読者をもつ司馬遼太郎は、三島に遊び、その体験を、『小説新潮』の昭和61年(1886)2月号に「裾野の水・三島泊一日の記」という文章にまとめています。「富士の湧水が水脈に入り、溶岩台地の最後の縁辺(ふち)の三島にきて顔をだす」とも、明治17年(1884)の三島の鉄道開通に対処した旦那衆のことを「雄大なり三島人」とズバリ書いています。三島の旦那衆が「箱根山にレールを敷くなら」と言って、江戸期の宿場の繁栄を追う余りに、鉄道開設に乗り遅れて陸の孤島になったと指摘しています。

スケールの大きい武田泰淳(たけだたいじゅん)の作品


  『森と湖のまつり』『貴族の階段』の作者武田泰淳は、中学生のとき沼津の海岸に遊び、三島にも土地勘を持っていました。その体験が『新・東海道五十三次』の中に生かされています。

 箱根西麓、坂地区の農村風景や、三嶋大社のあれこれの記述が楽しく百合子夫人との対話も面白いものです。

 

文学研究家と郷土の作家

石川啄木(たくぼく)研究の第一人者、
岩城之徳(いわきゆきのり)

 故岩城之徳日本大学教授は、石川啄木研究の権威であり、『石川啄木伝』で文学博士となり、『啄木評伝』『定本石川啄木歌集』などの膨大な研究物を刊行し、生涯三島の地で調べ続けた硯学(せきがく)の人です。

斎藤茂吉(さいとうもきち)研究家で歌人の
藤岡武雄
(ふじおかたけお)

 藤岡武雄日本大学教授は、斎藤茂吉研究の権威で、『評伝斎藤茂吉』で文学博士となり、『うろこ雲』ほか7冊の歌集を持つ歌人として、今も活躍中です。  

旧宮川町の文学おじさん戸羽山瀚(とばやまん) 

 朝日新聞記者のかたわら、こつこつと文筆業にいそしんでいました。『江川坦庵(えがわたんなん)全集』『近世の宿場、関所』『駿遠豆遊侠伝』などの作品で知られ、伊豆史談会会長としても親しまれていました。本名は鈴木良雄。
 

清水町で誕生したユーモア作家佐々木邦(ささきくに)

 『夫婦百面相』『愚弟賢兄』のユーモア作品で知られ、生家は清水町の新宿、地方神社の南側。戦中、戦後に大活躍していた人気作家です。長編小説の『地に爪跡を残すもの』『花嫁三国一』は、三島と清水町が舞台です。代表作は映画化もされました。
 小出正吾も佐々木邦も明治学院大学教授で、ユーモアを通じて、親交がありました。


文責 中尾勇さん

出典 『三島文学散歩』、『続・三島文学散歩』

ふるさとが誇(ほこ)りとする文人(ぶんじん)たち

親子三代の三島の文学者
 
大岡博(おおおかひろし)・大岡信(まこと)・大岡玲(あきら)

歌人(かじん)大岡博

 (なみ)の秀(ほ)に裾洗はせて大き月
  ゆらりゆらりと遊ぶがごとし

 の歌碑は、楽寿園に建立されました。昭和9年(1934)に短歌誌『菩提樹(ぼだいじゅ)を創刊、窪田空穂(くぼたうつぼ)門下の重鎮(じゅうちん)として歌に生命を傾けました。教育者として活躍、県教職員組合委員長、初代県立児童会館長も務めました。「三島町歌」「三島市制施行祝賀行進曲」「三島夜曲」の作詞も知られています。     

文化功労者・芸術院会員・詩人
大岡 (まこと)

 詩人・批評家
 昭和6年(1931)生まれ
大岡信の写真
 大岡博・綾子の長男として誕生。三島市立南小学校から沼津中学(現、沼津東高校)へ進み、東京大学文学部国文科を卒業後、読売新聞社に入社。
 学生時代から詩人として注目され、昭和30年(1955)『現代詩試論』を、翌年第一詩集『記憶と現在』を刊行。相沢かね子(沼津出身劇作家・深瀬サキ)と結婚。新聞社退社後は、明治大学教授に。


 昭和54年(1979)から朝日新聞に『折々のうた』の連載を始め、そのコラムで菊池寛賞を受賞。読売文学賞、現代詩花椿賞ほか、昭和62年(1987)、『詩人・菅原道真』は芸術選奨文部大臣賞、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ章に輝きました。当時日本ペンクラブ第11代会長に選ばれ、芹沢光治良、井上靖に次いで沼津中学出身者で3人も会長が選ばれたことが話題になりました。

 平成になってから、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエ受章、東京都文化賞、恩賜賞、日本芸術院賞、金冠賞(マケドニア)、朝日賞を受賞し、平成9年(1997)には文化功労者として顕彰
(けんしょう)されました。東京芸術大学教授から客員教授に。

 曽祖父
(そうそふ)を初代三島警察署長に持つこの偉大な詩人・批評家は、故郷三島の清澄な川と水を惜愛し、各種の地域活動に、超多忙の中をぬって積極的に参加しています。「故郷で語る折々のうた」、「三島ゆうすい会」その他、数えればキリがありません。その著書は既に300冊を越え、鋭利な視点による執筆活動は、ただ驚嘆するのみです。

芥川賞(あくたがわしょう)作家の大岡玲 

 大岡信の長男で、平成2年(1990)『表層生活』で芥川賞を受賞。先に『黄金のストーム・シーディング』で三島賞を受賞しています。

世界を童話でかけまわった
小出 正吾(こいでしょうご)

  児童文学者
  明治30年〜平成2年
  1897〜1990
小出正吾の写真
 三島市の農家兼商家に生まれ、それが正月5日の正午だったので、正吾と名付けられました。早稲田大学卒業後、やがて三島で農業のかたわら文学の勉強を始めました。

 大正11年(1922)、キリスト教の新聞に創作童話を連載し、童話作家として出発、『白い雀』の出版以来、注目されるようになりました。


 明治学院中等部の教師から、のち高等部(現在の明治学院大学)の教授となり、16年間勤めました。戦後は、三島市の教育委員長として、「原水爆反対の会」や、「三島をよくする会」を作るなど、郷土の自治運動に尽くし、日本児童文学者協会の会長も務めました。
 
 小出正吾の童話は、ほのぼのとした暖かい人間愛にあふれ、子供だけが知る喜びや悲しみを生き生きと描きました。春風のような情感を吹き込んでくれるその魅力の第1は、クリスチャンである父母のもとで、幼時から友愛と寛容の心をしつけられてきたこと。第2は、美しい自然に囲まれた三島で、少年期を過ごしたことがあげられます。
 
 昭和50年(1975)『ジンタの音』は野間児童文芸賞を受賞しました。この作品は自らの少年時代を思わせる正助という小学生が主人公で、物語の舞台は明治30年代から40年代で、その自然と、人々の生活が三島を通じて描かれています。

 小出正吾を慕った人たちが、現中央町に“子供には子供の世界がある”という碑を作りました。


出典 『ジンタの音』


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