(第162号) ~飛脚の信仰の跡が残る~ 「芝切地蔵堂の鐘」  (平成13年11月1日号)

芝切地蔵堂の鐘
 箱根西坂の東海道を箱根峠に登る途中、江戸時代の初めに成立した五ヶ新田集落があります。
 一番上の集落、山中新田は三島宿と箱根宿の間の宿として茶店や旅籠【はたご】(旅館)を営み繁栄しました。
 明治中頃、東海道線が開通するとパッタリ客足が途絶えてしまい、以後畑作や箱根笹の出荷などで生計をたてる農村に変わります。

 この山中新田の西の入口に「芝切地蔵堂」があり、江戸時代から次のようなお話が伝えられています。

『ある夜、巡礼の旅人が、山中新田に宗閑寺に一夜の宿を頼みますが、その夜腹痛におそわれなくなりました。その亡くなる間際に
「私をこの地で地蔵尊として祭って下さい。そして芝塚を積んで、生まれ故郷 常陸国(茨城県)が見える様にして下さい。そうすれば、村の人や世の中の人々の難病を救いましょう。」
 こうして巡礼は芝切地蔵尊として葬られ、毎年7月19日にお祭りが催されています。』

 祭りの時に求める芝切地蔵さんの腹掛けは、お腹の病によいと評判で、今でも求めに来る人々がいます。戦後までは伊豆一円や富士・沼津など遠方からも信者が集まり、参拝者の列が三島まで続いたといいます。
 祭りの前の晩、宵宮といって、集落の人々が小麦まんじゅうや菓子などお地蔵さんへのあげものを持ち寄ってお堂に集まり、お経を上げます。
 この時僧侶がたたく小さな鐘は、その昔、箱根八里を駆け抜けた飛脚【ひきゃく】たちが奉納したものです。
 直径20センチメートル程の鐘の裏には、「寛延二年(1750)巳年七月、箱根山中水呑地蔵堂、世話人箱根宿徳右衛門…」、鐘の横には「大坂三度飛脚中、江戸屋組 喜右衛門(他六人)、江戸会所 川兵衛、嶋屋組 平助(他四人)、大満屋組 弥兵衛(他三人)、山城屋組 四良兵衛(他五人)、志六人」がタガネ彫りで記されていて、定期的に江戸と大坂を往来していた飛脚たちが地蔵尊へあつい篤い信仰をもっていたことが伺われ、珍しい飛脚資料です。
 (広報みしま 平成13年11月1日号掲載記事)