(第280号)中・鈴木家文書の調査から 朝鮮通信使の通行 (平成23年9月1日号)

 郷土資料館では現在、約三万点の郷土資料を収蔵しています。未整理の古文書などの調査・整理を進めているところです。  

 今回は、中・鈴木家文書の調査・整理の過程で明らかとなった三島宿の様子を紹介します。  

 郷土資料館には、旧版『三島市誌』編さんに使われた三島宿問屋場関係資料をはじめ、旧三島町および周辺地域の古文書が多数保管されています。三島宿は東海道の江戸・品川宿から数えて十一番目の宿です。江戸ヘ向かう下りは、天下の険と言われる箱根を控え、小田原まで長い道のりを旅行しなければなりません。また、上りの 京都方面へ向かっては箱根を越えてほっと一息つく宿が三島宿でした。そのため、本陣や旅籠がにぎわいました。  

 問屋場資料だけで宿の様子がわかるわけではありません。宿を支える村の存在があり、はじめて宿が成り立ちます。そこで、所蔵資料のうち、中・鈴木家文書によって、村と宿がどのようにつながっていたかみたいと思います。  

 鈴木家文書は江戸時代の村の名主家文書ですので、宿関係ばかりではなく、村の様子を知る貴重な資料群で、現在整理中です。その量はまだ把握できていませんが、約三千点におよぶものと思います。今回はこの中で、延享五年(一七四八)の朝鮮通信使通行に関係する資料を紹介します。  

 延享五年の朝鮮通信使通行は第十回目にあたり、徳川家重が九代将軍に就いた祝賀のための来朝でした。下りは五月十七日に三島泊、上りは六月十六日に三島泊となりました。その時、三島宿に集められた人馬数は、合計人足四六〇人と馬一、一六九疋でした。人足は通信使・対馬藩主宗氏が使うもので、輿や駕籠ばかりではなく荷物運搬用にも使われました。馬は朝鮮人中官以下は乗馬となり、ほかは荷物運搬用でした。馬には馬子が一人ずつ付くことになるため、これだけで人数は一、六二九人です。さらに人足・馬子が勝手に通行の手伝いをするのではなく、統括にあたる人も一緒に行動します。また、これに、通信使一行、三九二人(総勢四七五人、内大坂残留八三人)が加わり、多人数の通行となりました。帰国の際は人馬を増やすように要求されています。中村からも通行を手伝う人馬を出しました。そのため、このような資料が残されたのです。  

 朝鮮通信使の通行は多人数の通行でしたので、伊豆国中から三島宿へ手伝いのための人馬が出されました。この通行は一般的に五千人規模で移動したといわれています。しかし、このように差し出し人馬数が明確に示された資料が発見されたのは伊豆で初めてです。

「鈴木家文書」冒頭の人数を記載した部分
「鈴木家文書」冒頭の人数を記載した部分

【平成23年 広報みしま 9月1日号 掲載記事】