(第282号)中・鈴木家文書の調査から 三島小僧・大場小僧 (平成23年11月1日号)

 秋は稲の収穫の季節です。現在も稲の品種改良が進められ、おいしいお米が生産されています。江戸時代にも、品種改良や評判の稲の品種を集めて栽培していました。毎年一月七日に行われる三嶋大社のお田打ちでは、持ち寄った種の交換が行われたと言われています。  

 江戸時代に栽培されていた稲の品種は全国の地名・国名がつくことが多く、遠州・美濃・伊勢・若狭・西国などがその代表です。現在の「こしひかり」「あきたこまち」がその例でしょうか。また、稲の性格を示す名前も あります。現在はこれに由来する、またあるべき姿を映して命名することが多くあります。その代表が「ひとめぼれ」でしょうか。さらに、その土地に適した稲を探す努力も怠っていませんでした。  

 鈴木家文書の中から、天保十四年(一八四三)~明治元年(一八六八)の二十六年間にわたる、苗代へ種まきを行った記録「種おろし」という帳面が発見されました。この中には大変興味深い、さまざまな情報が詰まっています。たとえば、「こぼれ」は多くの土地で栽培されていましたが、早稲の品種で収穫が早く稲の穂から米粒がこ ぼれる、または多くの粒が収穫できるということから命名されたものと思われます。今回見つけた帳面には「殿損」という品種の稲があります。おそらく、年貢を集める殿様が損をするくらい収穫がある品種だったと考えられます。

 地名をつけた稲の品種も多く、ご当地名称があります。今まで知られていたものに「韮山小僧」「丹那小僧」というものがありました。今回は、これに加えて、「三島小僧」「大場小僧」を栽培していたことが判明しました。残念ながら、品種名だけですので、どのような稲だったのかはわかりません。そのほかにも、伊豆の地名を冠したご当地品種が多数書き上げられていました。比較的多く、長い間栽培されていたものに、「伊豆墨」「加殿」「修善寺」(伊豆市)があります。「修善寺」は晩稲ということまでわかりました。「田代糯」(伊豆市か函南町)「湯ヶ島糯」(伊豆市)も栽培されました。  

 また、鈴木家の経営規模もわかります。元治元年(一八六四)では種卸しを反当たり六升とすると、種を一石五升まきましたので、一七町五反の田を耕作していたことになります。稲の品種を書き上げた史料は、ある年次を限ってのものはありますが、このように長い期間の記録は類例がありません。また、情報が多岐にわたり、非常 に貴重な史料ということができます。
【平成23年 広報みしま 11月1日号 掲載記事】