(第335号)一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)とその子孫~一柳庵跡(いちりゅうあんあと)・宗閑寺(そうかんじ) (平成28年4月1日号)

   今回は、山中城の戦いで討ち死にした豊臣方の武将・一柳直末ゆかりの史蹟についてご紹介します。

 戦国時代末、今から四二六年前の天正十八年(一五九〇)春、豊臣秀吉が小田原北条氏の攻略に乗り出しました。その緒戦(しょせん)となったのが、三月二十九日明け方に始まった山中城の戦いです。圧倒的な兵数で臨んだ豊臣方の軍は、正午過ぎには同城を落とし、箱根道を進軍していきました。

 一柳直末は、元亀元年(一五七〇)より木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、各地の戦で活躍した武将です。天正十八年(一五九〇)小田原合戦に随行し、山中城の戦いで先鋒をつとめ、鉄砲の銃弾に胸を射抜かれて討ち死にしました。古参の家臣・直末の討ち死にの報せを聞いた秀吉は、持っていた箸をとり落として絶句し、 三日間悲嘆に暮れたと伝えられています。

 直末が討死すると、その首は旗指(はたさし・戦場で主人の旗を持って従う武士)によって持ち去られ、黄瀬川沿いの長久保村(現・長泉町下長窪)に埋められたといいます。胴体は戦場に残され、箱根西坂の笹原新田に埋められたらしく、慶長七年(一六〇二)に同地に一柳庵という堂舎が建てられ、菩提が弔われたようです。(写真1)

一柳直末墓
写真1:一柳直末墓(一柳庵跡・笹原新田)

 江戸時代に入ると、この直末の子孫の中から、先祖の名声を後世に伝えようとする動きがでてきました。元禄十一年(一六九八)には播磨国(現・兵庫県)小野藩第二代藩主・一柳末礼(すえひろ)が、一柳庵の墳墓を山中新田にある宗閑寺の境内に移しています。これは墳墓が路傍の茶店の背後に位置していたため、祭祀(さいし)が行われなくなることを危惧しての措置だったようです。

 寛政四年(一七九二)には末礼の孫にあたる小野藩第五代藩主・一柳末栄(すえなが)、その子・末英(すえふさ・第六代藩主)の両人によって、宗閑寺の直末墓前にその事蹟(じせき)を刻んだ石碑が建立されました。(写真2左手)

直末の事蹟を刻んだ石碑
写真2:直末の事蹟を刻んだ石碑(宗閑寺・山中新田)※写真左手

 昭和に入ると、再び直末の功績が顧みられます。直末の弟の系譜に連なる一柳貞吉(さだきち)という人物が、直末の旧跡の調査と修繕を行っています。宗閑寺境内入口に見える碑も貞吉の働きかけで建立に至ったもので、題字は貞吉の旧師であった枢密顧問官〈すうみつこもんかん・天皇の最高諮問(しもん)機関である枢密院の構成員〉松室致(まつむろいたす)によって書かれました。昭和五年(一九三〇)三月二十九日に除幕式が行われています。(写真3)

宗閑寺境内入口の碑
写真3:宗閑寺境内入口の碑

 このように市内に現存する直末史蹟の背景から、その子孫たちによる先祖顕彰(けんしょう)の動きを見ることができます。



【広報みしま 平成28年4月1日号掲載記事】