(第341号)山中城の戦いの前史(平成28年10月1日号)

 富士・沼津・三島3市博物館共同企画展の第一弾として、十月十五日(土)から郷土資料館で開催する企画展「駿東・北伊豆の戦国時代―北条五代と山中城―」に関連し、山中城の戦いの直前の状況を紹介します。

 三島地域は、十五世紀末の伊勢宗瑞〈いせそうずい・北条早雲(ほうじょうそううん)〉の伊豆乱入以来、関東の雄・戦国大名北条氏の直接支配をうける領域となりました。そして北条氏の本拠地小田原の「西の防衛」を担う地として、箱根西麓に山中城が築かれました。群雄割拠の時代にあって、五代約百年もの間、関東に覇を唱 えた北条氏ですが、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の進攻をうけ、滅亡に追い込まれてしまいます。いわゆる「小田原合戦」です。東海道を西より攻め来たる豊臣軍と、北条軍とが全面衝突した地の一つが山中城でした。

 これより前、関白の地位に昇り、九州平定を果たした秀吉は、天正十六年(一五八八)四月、京都の聚楽第(じゅらくてい)に諸国の大名を呼び集めます。しかし北条氏政(うじまさ)・氏直(うじなお)父子はその求めに応じず、上洛しませんでした。同年八月に至り、徳川家康の取り成しで、氏政の弟である北条氏規(うじのり)が上洛し、秀吉に謁見(えっけん)を果たしたことで、北条氏の豊臣政権への従属が内外に示されること となります。しかし引続き、両者の関係性は緊張をはらむものでありました。

 そうした中、翌年の天正十七年(一五八九)十一月初頭に北条氏家臣猪俣邦憲(いのまたくにのり)が真田氏の治めていた名胡桃城〈なぐるみじょう・群馬県利根郡(とねぐん)みなかみ町〉を奪取してしまいます。同 城周辺は、長らく真田・北条間の係争地でしたが、この年二月に秀吉が真田の領有地とする裁定を下したことで、決着をみていました。この裁定を無視する行いが、秀吉の北条氏攻略の直接の引き金となりました。天正十七年十一月二十四日、秀吉は北条氏当主氏直に対し、来春、北条氏征伐に踏み切ることを宣言する文書を送り付 けました。これを受け、北条氏は領内の防衛を固めるとともに、家康に取り成しを依頼するなど諸策を講じますが、両者の対決は避けられないものとなったのです。

 天正十八年三月一日、秀吉が聚楽第を出陣、二日には先発した家康が黄瀬川の惣河原(長泉町)に、羽柴秀次〈(はしばひでつぐ)秀吉の甥〉が沼津に着陣しています。翌三日に戦端が開かれ、二十九日早朝、山中城は圧 倒的多数の豊臣軍に包囲されて、合戦の火蓋が切られることとなりました。

北条氏五代系図
▲北条氏五代系図

山中城の位置
▲山中城の位置


【広報みしま 平成28年10月1日号掲載記事】