(第402号)古代に営まれた集落の跡―中(なか)の金沢(かなざわ)遺跡―

 今回は、令和3年度開催の企画展「三島のはじまり 旧石器~古墳時代」でとりあげた遺跡の中から、古墳時代以降、集落として利用された「金沢遺跡」について紹介します。 

 金沢遺跡は、菰池(こもいけ)を水源として市内を南下する御殿川の東岸、鶴喰(つるはみ)橋バス停北側の、中(なか)の住宅街に位置しています。

 平成3年、マンションの建設にともなって発掘調査が行われました。その際、35軒の竪穴(たてあな)住居の跡が見つかり、この地がかつて集落として利用されていたことがわかりました。

金沢遺跡空撮

金沢遺跡空撮



 利用の時期は、住居跡から見つかった土器の型式の調査により、古墳時代から平安時代にかけてのことと判明しました。この期間中、何度か人の利用が途絶える時期もあったようです。

 当時の人々は、「竪穴住居(たてあなじゅうきょ)」と呼ばれる形態の家に暮らしていました。地面を掘って床を作り、そこに柱を立てて屋根を載せたもので、半地下式の構造をしていました。人々が定住生活を営むようになった縄文時代には、床面を丸く作るのが主流でしたが、時代が新しくなるにつれ、四角形に作るようになりました。大きさは時期によってまちまちですが、下写真の住居跡(古墳時代の4~5世紀のもの)は、床面積370cm×310cm程の規模で建てられています。

古墳時代の住居跡拡大(金沢遺跡)

古墳時代の住居跡拡大

   これら住居跡からは、当時の人々が日常的に使っていたと考えられる土器がたくさん見つかりました。

 土器の利用が始まった縄文時代には、煮炊きも貯蔵も深鉢形(ふかばちがた)の土器で行っていました。弥生時代には甕(かめ)・壺(つぼ)・高坏(たかつき/脚をつけた浅鉢)という形の土器が作られるようになり、古墳時代に入ると椀(わん)・坏(つき)・坩(かん/丸底の壺)という形状の土器が加わります。煮炊き・貯蔵・保存・盛り付けといった場面ごとに適した形状の土器を作り、使い分けるようになっていったのです。

 下の写真は、住居跡から見つかったものです。現在開催中の企画展で実物を展示していますので、楽寿園にお立ち寄りの際は、ぜひご覧になってください。

金沢遺跡8号住居址出土土師器

住居跡から出土した古墳時代の土器



【広報みしま令和3年11月1日号掲載】