(第404号)小松宮彰仁親王と仁和寺(令和4年2月1日号)

 今回は、郷土資料館企画展「仁和寺と三島―宮様が結んだ縁(えん)―」の開催にちなみ、小浜池周辺に別 邸(現市立公園楽寿園)を築いた明治時代の皇族小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王が、仁和寺(にんなじ)門跡(もんぜき/住職)に就任した経緯について紹介します。

 京都市右京区にある真言宗御室(おむろ)派・総本山仁和寺は、ユネスコの世界文化遺産に登録され、桜の名所としても知られる古刹です。三島市民から「宮さん」の名で親しまれた彰仁親王は、青少年期、この仁和寺で僧侶として暮らしていました。

 仁和寺は、平安時代の仁和2年(886)、光孝(こうこう)天皇の願いにより建立が計画された寺院です。光孝は翌3年に崩御(ほうぎょ)してしまったため、造営は皇位を継いだ宇多(うだ)天皇により進められ、同 4年に完成に至りました。

 宇多は譲位後に出家し、「法皇(ほうおう)」(出家した上皇)となって仁和寺に居住します。この宇多を第一世(最初の住職)とし、以降、天皇の皇子や皇孫など、皇統に連なる人々により門跡が継承されていきました。

 さて彰仁親王は、江戸時代の弘化(こうか)3年(1846)1月、伏見宮(ふしみのみや)家の王子として誕生しました。同5年1月、前年末に亡くなった仁和寺第29世門跡済仁法親王(さいにんほっしんのう)の跡を受け、満2歳にして門跡を継ぐことが決まります。  

 その後、仁和寺門前の御殿で養育され、満12歳のときに天皇から「嘉彰(よしあきら)」の名を賜わり、親王号を名のることが許されました。それから約半年後、仁和寺に入り、出家を果たします。「法親王」(出家した親王)となり、法号を「純仁(じゅんにん)」として、僧侶としての生活を開始しました。  

 門跡としての知識・作法の習得、修行に励みながら青少年期を過ごした純仁法親王ですが、慶応3年(1867)12月、22歳のときに王政復古の大号令が発せられ、その生活に終止符が打たれます。純仁に対し、新政府が設置した官職「議定(ぎじょう)」に就くこと、名を嘉彰に戻すこと、つまりは俗人に戻るよう命が下り、以降、皇族の一人として軍事・外交の場面を中心に、多くの事績を残すこととなります。  

 嘉彰親王が、名を「彰仁」、宮号を「小松宮」に改めたのは、維新の混乱が落ち着いた後の明治15(1882)のことです。小松宮の宮号は、青少年期を過ごした仁和寺の立地する地名(字名/あざな)にちなんで付けられました。

 現楽寿園の地に別邸の建造を思い立った時期は明治23年頃といわれており、遅くとも同25年中には完成至ったようです。建物には京風の建築様式が用いられ、彰仁親王が生涯を通じて仁和寺で過ごした日々を大切にしていたことが想像されます。

純仁法親王像(仁和寺蔵)

小松宮彰仁親王御法体肖像(総本山仁和寺蔵)



【広報みしま 令和4年2月1日号掲載記事】