歴史の小箱
(第85号) ~天下の険もこれで大丈夫~ 関所手形 (平成6年7月1日号)
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と唄われたように、八里の山越えは、大井川の渡しとならぶ東海道の難所として旅人に恐れられていました。その理由の第一は、箱根に関所があったからです。江戸幕府が特に注意していたのは、「入り鉄砲に出女【でおんな】」で、江戸に持ち込まれる武器と、江戸から離れようとする女性だったのです。したがって、関所を通り抜けようとする者には、通行のための手形の携行が義務付けられ、これが旅の必需品となっていました。
手形の文面には定型があり、決められた条件を満たしてはじめて正式な通行手形として認められたものです。
まず「手形の事」という書き出しで始まり、次に「本文」です。本文には、関所を通行する者が、どんな用件で、どこまで行くかを記した上で、無事通過できるように依頼します。手形の中で最も重要な部分は本文に続く個所で、旅人の身元保証人名とその証明印です。ある藩の下級役人であればその重役が、一介の庶民であれば町・村役人や寺の僧侶が保証人となりました。そして、日付を明記して、通過する関所の「役人御中」と宛名を書いて書式が整います。
ところで、写真の「関所手形」は、元治元年(1864)子年8月15日のもの。遠州相良の田沼藩の武士3人が、江戸西丸下屋敷から、用事を申し渡されて国に下がる際の箱根関所の通行手形です。
遠州の田沼藩といえば、八代将軍吉宗に仕えて出世の足掛かりをつかみ、次の家重の代に幕府政治の中枢に入り込み、側用人、老中にまで上りつめ、寛政の改革前までその権勢を誇った田沼意次で知られた藩です。
海外の列強国の圧力は、ますます強く、幕府が窮地に陥っている江戸末期のこの時、郷里遠州相良に帰る3人の武士は、果たしてどんな使命を帯びての帰国だったのでしょうか。
(広報みしま 平成6年7月1日号掲載記事)
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